恥ずかしがり屋の日本人
恥ずかしがり屋の日本人
正樹はあの夢のようなマニラ旅行を忘れることが出来なかった。正樹の人生に大きな衝撃と感動を与えたあの一週間の旅の後、北海道に戻って勉強を続けていたが何度も何度もフィリピンの事を思い出しては胸がいっぱいになっていた。特にディーンとの出会いは狂おしいほどの想い出となって消えずにいた。その甘く切ない想いは正樹が現実の世界に立ち向かうことをしばしば妨げていた。ディーンの優しく知的な目、しなやかな仕草や甘い言葉、正樹は頭の中であれこれと考えを巡らせては楽しかった一週間を心の中で繰り返していた。そして時折、正樹はかつてないほどの無気力感に襲われると、決まって次には北海道を出ることばかりを考えていた。そんな時にディーンからの手紙でどこかの日本人の社長が彼女の学費を出したがっていると知らされて嫉妬で胸が張り裂けそうになっていた。
正樹は十勝川温泉に学校の友達と週末を利用して遊びに来ていた。昔、この地には遊郭があり、つい最近まで男どもで大いに賑わっていたらしい。道東のあちらこちらから多くの荒々しい男たちがこの花街に集まったものだと宿の女将さんが話してくれた。遊郭が廃止されてからも夜の明かりは消えずに独特の温泉場風情を十勝川温泉は残していた。正樹が世話になったホテルにはフィリピンからダンサーのグループが出稼ぎに来ていて、食事の時はそのまかないもしていた。ご飯のお代わりやら味噌汁のお代わりもよく気がついた。食事が終わって、ショータイムになると、今度はきらびやかな衣装で大部屋の特設舞台で悩ましく踊り始めた。その中に一人だけ、飛びぬけて目立つ子がいた。その子の美しさが却って正樹には悲しい気持ちとなって迫ってくるのだった。どことなくディーンに似ていたからだ。ホテルの地下にはカラオケやスナックが幾つかあって、そこでもフィリピンからの「じゃぱゆきさん」たちが大人気だった。正樹は夜中にトイレに行く時に大部屋で疲れきった彼女たちが雑魚寝をしている様子を偶然にも見てしまった。部屋に戻ってからもその夜は正樹は一睡も出来なかったことは言うまでもない。ホテルの泊まり客が帰った後の掃除もきっと彼女たちの仕事であることはたやすく想像が出来た。よく分からないが兎に角、何かが間違っているように正樹にはおもえた。北海道だけではない、この頃から日本中には「じゃぱゆきさん」がどんどん増え始めていた。どこかの助平な社長がディーンの学費の援助を申し出ていることを手紙で知ってから正樹のイライラは爆発寸前であったが、十勝川温泉で「じゃぱゆきさん」たちと会って正樹の我慢もとうとう限界に達してしまった。もう駄目だ。ディーンのところへ行こう。そのことばかりを正樹は考えるようになってきていた。正樹はボンボンに相談しようと何度も東京にある留学生会館に電話をしたが、いつも留守だった。サンチャゴのアパートへ直接に国際電話をしてみると、ボンボンは日本から来た客と一緒にどこか南の島に行っているという返事が返ってきた。いつ帰ってくるのかとお手伝いのリンダに訊ねると分からないという答えだった。日本から来た客と南の島へ行っているとリンダは確かに言った。正樹はその客がディーンの学費を出す助平な社長だとおもった。まだ若い正樹はディーンのことを忘れることは出来なかった。一日も早く、一時も早くディーンに会いたかったが、辛抱して更にもう一週間、真剣に考え続けて結論を出した。もちろん家族とも相談した。マニラで医者になりたいと言い出すと、家族は皆、猛反対をした。ただ、自分で独立して会社を始めたばかりの父だけは反対も賛成もしなかった。その時、父の頭の中には日本がだんだん円高に向かうこと、また日本と比較してフィリピンの労働力が非常に安いこと、そんなことまで考えていたかどうか、正樹はとうとう父が死ぬまで聞くことは出来なかった。正樹は次の週に学校の事務所へ行き、休学届けを提出した。そして素早く東京に戻り、フィリピンへ渡る準備を始めた。完全に恋の女神の勝利であった。この時の正樹は間違いなく恋の奴隷になってしまっていた。しばらくボンボンのことを東京で待っていたのだが、帰ってくる気配はまったくなかった。普段ならばそれであきらめてしまうところだったが、恋は正樹のことを更に強くしていた。何も分からないまま、正樹は自分独りで渡航準備を進めた。まず九十日間の観光ビザを取得してマニラに渡り、その九十日の間でフィリピンの大学入学の為の国家試験やフィリピン文部省の入学許可に挑戦するつもりだった。そして観光ビザを学生ビザに変更しようと考えていたのだが、現実はもっと厳しかった。ビザというものは在外公館が発行するもので、すべての許可がおりた段階で再び日本に戻って東京のフィリピン大使館で学生ビザの発給を受けなくてはならないことも段々と分かってきた。正樹は必死だった。早くディーンに会いたかった。当時、東京のフィリピン大使館は学生ビザを申請する際に健康診断書の提出を義務づけていた。しかも聖路加の国際病院の英文の診断書を指定していた。それを知らなかった正樹は近くの医者の健康診断書を持って大使館に行ってそれを見せたら冷たく突っ返されてしまった。何をどういう順番で手続きをしたら良いのかまったく分からなくなってしまった。それでも正樹はめげずに頑張った。とにかくまず、フィリピン本国に行って、向こうの学校の入学許可を取ろうと正樹は決心した。きっとディーンとボンボンの姉さんが学校の方は助けてくれるはずだ。とにかく向こうに行こう、行けばどうにかなると正樹は自分のことを勇気づけた。航空券はディスカウントで申し込んだが、出発までに少し時間があったので聖路加の国際病院へ行って健康診断を受けた。学生ビザの申請にはまだ時間がかかりそうだったが、向こうに行ってからも健康診断書は役に立つと考えたからだ。正樹の問診に当たった病院の先生は正樹が書いた問診表を見ながら不思議そうに訊ねた、
「フィリピンに留学ですか。ええと、正樹君ですね。フィリピンね、変わっていますね。皆さんアメリカとか、ヨーロッパへ好んで留学されますが、あなたはフィリピンですか。それで学部は?」
「医学部です。」
「医学部か、珍しいケースですね。向こうの学校はどうなのですか?例えば学費とかはどのくらいするのでしょうか。」
「すみません。まだ学費のことまでよく分かりません。ただ日本のようには高くはないとおもいます。」
「そうですか、フィリピンね。是非、頑張って立派な医者になって下さいよ。応援していますよ。あとは、喘息と書いてありますが、ええと、お父さんかお母さんのどちらかに喘息持ちは?」
「はい、両親とも喘息の持病があります。」
「遺伝性のアレルギーですね。それで、どの程度の喘息なのでしょうか?」
「風邪を引いた後に少しだけ咳き込みます。でもそんなにひどい咳ではありません。」
「それではこの健康診断表に記載するのはやめときましょうか。留学の為の健康診断ですからね。いたって健康そのものということで、それで問題はありませんね。」
「ええ、まあ、そうしてもらえると助かります。」
問診の後は病院の廊下にペンキで書かれた緑の線をたどって目の検査やらレントゲン、その他の健康診断を順次済ませた。英文の健康診断書は数日後に出来上がったので受け取りに行ったところ、会計の窓口でお金が足りなくなってしまい、また翌日、出直して料金を支払った次第だ。それほど高いものだった。出発までに何度も渋谷の南平台(当時)にあるフィリピン大使館を訪ねた。ボンボンのことを知っているという人物に正樹は偶然に会った。マニラの移民局で直接に学生ビザ取得の為の面接を受けた方がより早く学生ビザが発給されるとその人物は教えてくれた。正樹は可能な限りの書類を整えて、出発の日が来るのを待った。とにかく早くディーンの顔が見たかった。どんなに煩わしい手続きも一向に苦にはならなかった。ただ時間の流れの遅さには無性に腹がたった。何も失うものがないということは、何と幸せなことなのだろうか。がむしゃらに生きることの素晴らしさを感受出来るのは若者だけの特権でもあるのだ。
正樹を乗せた飛行機はゆっくりと機体を傾けてマニラ国際空港に着陸を始めた。その当時、あるうわさがあった。マニラ空港の滑走路には一箇所必ずガクッと揺れる場所があるというものだ。正樹は複数の人々からそのことを聞いていたから、自分でも確かめてみようとおもっていた。滑走路に車輪が着いたと感じた時から正樹は五感をその一点に集中した。すると確かにガクッときた。いったいあれは何なのだろうか。まさか滑走路に穴が開いているはずもないのに、何故そうなるのか今だに謎である。正樹にとっては二度目のマニラ国際空港ではあるが、やはり不安であった。白タクの運転手たちが空港の出口を出ると正樹に群がって来た。正樹は次から次へと近づいて来る恐そうな男たちを掻き分けるように歩いた。すると突然、正樹の肩をぐいっと掴む手があった。ギクリとして振り返って後ろを見ると、そこにはボンボンの弟のネトイがすっくと立っていた。正樹は彼を見て本当に助かったとおもった。東京を出る前にサンチャゴのアパートに電話を入れておいたのが良かった。英語が苦手なお手伝いのリンダとしか話が出来なかったので、正樹の用件がしっかりと伝わっているのか不安だった。しかし、ちゃんと連絡はとれていたのだ。ネトイの顔を見るまで、やはり独りではこの空港を無事に抜け出すのは無理だなと、パニック状態だったので、ネトイの顔がこの時ばかりは頭の上に輪のある天使に見えてしまった。二人は手を取り合って再開を喜び合った。正樹はネトイの為に買った免税のマルボーロをさっそく渡そうとおもってバックの中をかき回した。頭を上げてそれを渡そうとした、その時、ディーンが近づいて来たのだ。もうネトイのマルボーロのことも忘れ、マニラ空港の混乱も彼女の出現ですべてが一変した。一瞬にして正樹の最高の舞台へと変わってしまった。ディーンがじっと自分のことを見つめている。何度も何度も日本で思い浮かべていた場面がやってきたというのに、正樹は微笑むのが精一杯だった。やはり日本人なのである。恥ずかしがり屋の日本人に生まれてきたことを大いに悔やんだ。しかし同時に、再び、ディーンに逢うことが出来たことを神様に感謝する正樹であった。
正樹はあの夢のようなマニラ旅行を忘れることが出来なかった。正樹の人生に大きな衝撃と感動を与えたあの一週間の旅の後、北海道に戻って勉強を続けていたが何度も何度もフィリピンの事を思い出しては胸がいっぱいになっていた。特にディーンとの出会いは狂おしいほどの想い出となって消えずにいた。その甘く切ない想いは正樹が現実の世界に立ち向かうことをしばしば妨げていた。ディーンの優しく知的な目、しなやかな仕草や甘い言葉、正樹は頭の中であれこれと考えを巡らせては楽しかった一週間を心の中で繰り返していた。そして時折、正樹はかつてないほどの無気力感に襲われると、決まって次には北海道を出ることばかりを考えていた。そんな時にディーンからの手紙でどこかの日本人の社長が彼女の学費を出したがっていると知らされて嫉妬で胸が張り裂けそうになっていた。
正樹は十勝川温泉に学校の友達と週末を利用して遊びに来ていた。昔、この地には遊郭があり、つい最近まで男どもで大いに賑わっていたらしい。道東のあちらこちらから多くの荒々しい男たちがこの花街に集まったものだと宿の女将さんが話してくれた。遊郭が廃止されてからも夜の明かりは消えずに独特の温泉場風情を十勝川温泉は残していた。正樹が世話になったホテルにはフィリピンからダンサーのグループが出稼ぎに来ていて、食事の時はそのまかないもしていた。ご飯のお代わりやら味噌汁のお代わりもよく気がついた。食事が終わって、ショータイムになると、今度はきらびやかな衣装で大部屋の特設舞台で悩ましく踊り始めた。その中に一人だけ、飛びぬけて目立つ子がいた。その子の美しさが却って正樹には悲しい気持ちとなって迫ってくるのだった。どことなくディーンに似ていたからだ。ホテルの地下にはカラオケやスナックが幾つかあって、そこでもフィリピンからの「じゃぱゆきさん」たちが大人気だった。正樹は夜中にトイレに行く時に大部屋で疲れきった彼女たちが雑魚寝をしている様子を偶然にも見てしまった。部屋に戻ってからもその夜は正樹は一睡も出来なかったことは言うまでもない。ホテルの泊まり客が帰った後の掃除もきっと彼女たちの仕事であることはたやすく想像が出来た。よく分からないが兎に角、何かが間違っているように正樹にはおもえた。北海道だけではない、この頃から日本中には「じゃぱゆきさん」がどんどん増え始めていた。どこかの助平な社長がディーンの学費の援助を申し出ていることを手紙で知ってから正樹のイライラは爆発寸前であったが、十勝川温泉で「じゃぱゆきさん」たちと会って正樹の我慢もとうとう限界に達してしまった。もう駄目だ。ディーンのところへ行こう。そのことばかりを正樹は考えるようになってきていた。正樹はボンボンに相談しようと何度も東京にある留学生会館に電話をしたが、いつも留守だった。サンチャゴのアパートへ直接に国際電話をしてみると、ボンボンは日本から来た客と一緒にどこか南の島に行っているという返事が返ってきた。いつ帰ってくるのかとお手伝いのリンダに訊ねると分からないという答えだった。日本から来た客と南の島へ行っているとリンダは確かに言った。正樹はその客がディーンの学費を出す助平な社長だとおもった。まだ若い正樹はディーンのことを忘れることは出来なかった。一日も早く、一時も早くディーンに会いたかったが、辛抱して更にもう一週間、真剣に考え続けて結論を出した。もちろん家族とも相談した。マニラで医者になりたいと言い出すと、家族は皆、猛反対をした。ただ、自分で独立して会社を始めたばかりの父だけは反対も賛成もしなかった。その時、父の頭の中には日本がだんだん円高に向かうこと、また日本と比較してフィリピンの労働力が非常に安いこと、そんなことまで考えていたかどうか、正樹はとうとう父が死ぬまで聞くことは出来なかった。正樹は次の週に学校の事務所へ行き、休学届けを提出した。そして素早く東京に戻り、フィリピンへ渡る準備を始めた。完全に恋の女神の勝利であった。この時の正樹は間違いなく恋の奴隷になってしまっていた。しばらくボンボンのことを東京で待っていたのだが、帰ってくる気配はまったくなかった。普段ならばそれであきらめてしまうところだったが、恋は正樹のことを更に強くしていた。何も分からないまま、正樹は自分独りで渡航準備を進めた。まず九十日間の観光ビザを取得してマニラに渡り、その九十日の間でフィリピンの大学入学の為の国家試験やフィリピン文部省の入学許可に挑戦するつもりだった。そして観光ビザを学生ビザに変更しようと考えていたのだが、現実はもっと厳しかった。ビザというものは在外公館が発行するもので、すべての許可がおりた段階で再び日本に戻って東京のフィリピン大使館で学生ビザの発給を受けなくてはならないことも段々と分かってきた。正樹は必死だった。早くディーンに会いたかった。当時、東京のフィリピン大使館は学生ビザを申請する際に健康診断書の提出を義務づけていた。しかも聖路加の国際病院の英文の診断書を指定していた。それを知らなかった正樹は近くの医者の健康診断書を持って大使館に行ってそれを見せたら冷たく突っ返されてしまった。何をどういう順番で手続きをしたら良いのかまったく分からなくなってしまった。それでも正樹はめげずに頑張った。とにかくまず、フィリピン本国に行って、向こうの学校の入学許可を取ろうと正樹は決心した。きっとディーンとボンボンの姉さんが学校の方は助けてくれるはずだ。とにかく向こうに行こう、行けばどうにかなると正樹は自分のことを勇気づけた。航空券はディスカウントで申し込んだが、出発までに少し時間があったので聖路加の国際病院へ行って健康診断を受けた。学生ビザの申請にはまだ時間がかかりそうだったが、向こうに行ってからも健康診断書は役に立つと考えたからだ。正樹の問診に当たった病院の先生は正樹が書いた問診表を見ながら不思議そうに訊ねた、
「フィリピンに留学ですか。ええと、正樹君ですね。フィリピンね、変わっていますね。皆さんアメリカとか、ヨーロッパへ好んで留学されますが、あなたはフィリピンですか。それで学部は?」
「医学部です。」
「医学部か、珍しいケースですね。向こうの学校はどうなのですか?例えば学費とかはどのくらいするのでしょうか。」
「すみません。まだ学費のことまでよく分かりません。ただ日本のようには高くはないとおもいます。」
「そうですか、フィリピンね。是非、頑張って立派な医者になって下さいよ。応援していますよ。あとは、喘息と書いてありますが、ええと、お父さんかお母さんのどちらかに喘息持ちは?」
「はい、両親とも喘息の持病があります。」
「遺伝性のアレルギーですね。それで、どの程度の喘息なのでしょうか?」
「風邪を引いた後に少しだけ咳き込みます。でもそんなにひどい咳ではありません。」
「それではこの健康診断表に記載するのはやめときましょうか。留学の為の健康診断ですからね。いたって健康そのものということで、それで問題はありませんね。」
「ええ、まあ、そうしてもらえると助かります。」
問診の後は病院の廊下にペンキで書かれた緑の線をたどって目の検査やらレントゲン、その他の健康診断を順次済ませた。英文の健康診断書は数日後に出来上がったので受け取りに行ったところ、会計の窓口でお金が足りなくなってしまい、また翌日、出直して料金を支払った次第だ。それほど高いものだった。出発までに何度も渋谷の南平台(当時)にあるフィリピン大使館を訪ねた。ボンボンのことを知っているという人物に正樹は偶然に会った。マニラの移民局で直接に学生ビザ取得の為の面接を受けた方がより早く学生ビザが発給されるとその人物は教えてくれた。正樹は可能な限りの書類を整えて、出発の日が来るのを待った。とにかく早くディーンの顔が見たかった。どんなに煩わしい手続きも一向に苦にはならなかった。ただ時間の流れの遅さには無性に腹がたった。何も失うものがないということは、何と幸せなことなのだろうか。がむしゃらに生きることの素晴らしさを感受出来るのは若者だけの特権でもあるのだ。
正樹を乗せた飛行機はゆっくりと機体を傾けてマニラ国際空港に着陸を始めた。その当時、あるうわさがあった。マニラ空港の滑走路には一箇所必ずガクッと揺れる場所があるというものだ。正樹は複数の人々からそのことを聞いていたから、自分でも確かめてみようとおもっていた。滑走路に車輪が着いたと感じた時から正樹は五感をその一点に集中した。すると確かにガクッときた。いったいあれは何なのだろうか。まさか滑走路に穴が開いているはずもないのに、何故そうなるのか今だに謎である。正樹にとっては二度目のマニラ国際空港ではあるが、やはり不安であった。白タクの運転手たちが空港の出口を出ると正樹に群がって来た。正樹は次から次へと近づいて来る恐そうな男たちを掻き分けるように歩いた。すると突然、正樹の肩をぐいっと掴む手があった。ギクリとして振り返って後ろを見ると、そこにはボンボンの弟のネトイがすっくと立っていた。正樹は彼を見て本当に助かったとおもった。東京を出る前にサンチャゴのアパートに電話を入れておいたのが良かった。英語が苦手なお手伝いのリンダとしか話が出来なかったので、正樹の用件がしっかりと伝わっているのか不安だった。しかし、ちゃんと連絡はとれていたのだ。ネトイの顔を見るまで、やはり独りではこの空港を無事に抜け出すのは無理だなと、パニック状態だったので、ネトイの顔がこの時ばかりは頭の上に輪のある天使に見えてしまった。二人は手を取り合って再開を喜び合った。正樹はネトイの為に買った免税のマルボーロをさっそく渡そうとおもってバックの中をかき回した。頭を上げてそれを渡そうとした、その時、ディーンが近づいて来たのだ。もうネトイのマルボーロのことも忘れ、マニラ空港の混乱も彼女の出現ですべてが一変した。一瞬にして正樹の最高の舞台へと変わってしまった。ディーンがじっと自分のことを見つめている。何度も何度も日本で思い浮かべていた場面がやってきたというのに、正樹は微笑むのが精一杯だった。やはり日本人なのである。恥ずかしがり屋の日本人に生まれてきたことを大いに悔やんだ。しかし同時に、再び、ディーンに逢うことが出来たことを神様に感謝する正樹であった。
波に任せて
波に任せて
飛行場の掘っ建て小屋を出るとオートバイにサイドカーを付けたトライシクルが何台も並んでいた。ボンボンは荷物を後ろの座席に積んでから千代菊と菊千代をサイドカーの前の座席に座らせた。次に茂木をドライバーのすぐ後ろにまたがらせてから、自分はサイドカーの横にしがみついた。きっと日本で用済みとなりこの国に運ばれてきたKAWASAKIと書かれたエンジンは五人を乗せて苦しそうに動き出した。辺りの景色を見る暇もなく、三十秒もしないうちにボラカイ島へ渡るカティクランの船着場に到着してしまった。茂木が言った。
「何だ、ボンボン、近いじゃないですか。これなら歩いたほうが早かったかな。」
「すみません。僕、ここは初めてなものですから、おっしゃる通りですね。順番待ちをしているよりも、歩いた方が早かったですね。こんなに船着場が近いとは知りませんでしたよ。」
「いや、謝ることはありませんよ。考えてみると、私たちはしばらくこの地で生きていくことになるわけだから、こんなに近い距離でもトライシクルに乗った方が正解だったかもしれませんよ。ドライバーたちにも家族はあるわけだし、初めからケチな奴らが来たと噂がたってしまうとマイナスですからね。限られた狭い土地では決して独りでは生きていけませんからね、トライシクルも出来るだけ利用して助け合って生きていくことが大切なのだと思いますよ。」
「トライシクルに乗ったことは富を分け与えるという崇高な理念にも叶っていたわけですね。」
「ボンボン、随分と難しい言葉のいい回しを知っていますね。その通りですよ。とても君がフィリピン人とはおもえないよ。でも、次回からはこの距離ならば、荷物が無ければ歩きましょうか。」
「そうですね。」
カティクランは「はらっぱ空港」とカリボ行きのバス停、そしてボラカイ島へ渡る船の停泊所が中心の町だ。道路のすぐ横の堤防を越えて斜めに砂利道を下るとバンカーボートが何隻も並んでいる。ここの親分らしき古老の指図で次に出るボートが決まる。桟橋などはないので服を捲り上げて乗り込むことになる。茂木は千代菊と菊千代を順に抱き上げてボートに乗せた。菊千代は茂木に抱えられた時にしっかりとしがみついてなかなか離れなかった。口には出さないが、あまりにもいろいろな事が起こって、菊千代はやはり寂しかったのだ。ボンボンはみんなの荷物を体中に巻きつけて乗船した。乗客の数が揃わないと出航しないのは当然である。長い間、ボートの船頭たちは自分の順番を待っていたのだから、定員を超えた状態でボラカイ島に戻りたいわけだ。ボラカイ島はすぐ目の前に見えているというのに、渡るのには時間が結構かかるのであった。千代菊と菊千代はこの旅が観光ではないことをすでに自分に言い聞かせていたのだろうか、二人とも口数は少なかった。他の乗客たちも良く似た美人の双子のことをジロジロと見ているだけで、皆、ボートの上で静かに出航を待っていた。しばらくするとフィリピン航空の大型機が離発着する隣町のカリボ空港から大型バスが船着場に到着した。大勢の観光客が堤防の上からどかどか駆け下りて来た。あっという間に、三隻のボートが満杯になった。古老が合図を出した。島に向かって勢い良く競い合いながら出航となった。空は既に赤くなりかかってきており、日没が近づいていることを知らせていた。茂木は前に座っている千代菊と菊千代が波の揺れに合わせて上下するのを眺めていた。歩くくらいの速さでバンカーボートは進んでいる。急ぐ旅ではなかった。今はただ、運命も何もかも、すべてを波の動きに任せるしかなかった。夕焼けが日本を追われて来たという寂しさをいっそう強烈なものにしていた。千代菊は色々な想いがこみ上げてきて、ハンカチで目を覆ってしまった。菊千代はすくっと立ち上がり、茂木の隣に移って来て、茂木の腕に顔を埋めてしまった。今は波に任せるしかないと何度も自分に言い聞かせていた。きれいな夕日がボラカイの海に沈んだ。
「菊ちゃん、しばらくの辛抱だよ。また京都に帰れる日は必ず来るから心配するな。だから、しばらく日本のことは忘れよう。」
「うちは茂木はんと一緒ならどこでも平気どす。」
「ねえ、菊ちゃん。ここではその芸妓言葉は止めにしようよ。日本のことも京都のことも今は忘れることにしようじゃないか。いいね。」
「そうね、そうしますね。」
茂木は菊千代の顔を自分の胸から軽く外して、腕の中へ移し変えた。空も海もボラカイ島もすべてがうす紅色に染まっていた。四人はすべてを波に任せていた。
飛行場の掘っ建て小屋を出るとオートバイにサイドカーを付けたトライシクルが何台も並んでいた。ボンボンは荷物を後ろの座席に積んでから千代菊と菊千代をサイドカーの前の座席に座らせた。次に茂木をドライバーのすぐ後ろにまたがらせてから、自分はサイドカーの横にしがみついた。きっと日本で用済みとなりこの国に運ばれてきたKAWASAKIと書かれたエンジンは五人を乗せて苦しそうに動き出した。辺りの景色を見る暇もなく、三十秒もしないうちにボラカイ島へ渡るカティクランの船着場に到着してしまった。茂木が言った。
「何だ、ボンボン、近いじゃないですか。これなら歩いたほうが早かったかな。」
「すみません。僕、ここは初めてなものですから、おっしゃる通りですね。順番待ちをしているよりも、歩いた方が早かったですね。こんなに船着場が近いとは知りませんでしたよ。」
「いや、謝ることはありませんよ。考えてみると、私たちはしばらくこの地で生きていくことになるわけだから、こんなに近い距離でもトライシクルに乗った方が正解だったかもしれませんよ。ドライバーたちにも家族はあるわけだし、初めからケチな奴らが来たと噂がたってしまうとマイナスですからね。限られた狭い土地では決して独りでは生きていけませんからね、トライシクルも出来るだけ利用して助け合って生きていくことが大切なのだと思いますよ。」
「トライシクルに乗ったことは富を分け与えるという崇高な理念にも叶っていたわけですね。」
「ボンボン、随分と難しい言葉のいい回しを知っていますね。その通りですよ。とても君がフィリピン人とはおもえないよ。でも、次回からはこの距離ならば、荷物が無ければ歩きましょうか。」
「そうですね。」
カティクランは「はらっぱ空港」とカリボ行きのバス停、そしてボラカイ島へ渡る船の停泊所が中心の町だ。道路のすぐ横の堤防を越えて斜めに砂利道を下るとバンカーボートが何隻も並んでいる。ここの親分らしき古老の指図で次に出るボートが決まる。桟橋などはないので服を捲り上げて乗り込むことになる。茂木は千代菊と菊千代を順に抱き上げてボートに乗せた。菊千代は茂木に抱えられた時にしっかりとしがみついてなかなか離れなかった。口には出さないが、あまりにもいろいろな事が起こって、菊千代はやはり寂しかったのだ。ボンボンはみんなの荷物を体中に巻きつけて乗船した。乗客の数が揃わないと出航しないのは当然である。長い間、ボートの船頭たちは自分の順番を待っていたのだから、定員を超えた状態でボラカイ島に戻りたいわけだ。ボラカイ島はすぐ目の前に見えているというのに、渡るのには時間が結構かかるのであった。千代菊と菊千代はこの旅が観光ではないことをすでに自分に言い聞かせていたのだろうか、二人とも口数は少なかった。他の乗客たちも良く似た美人の双子のことをジロジロと見ているだけで、皆、ボートの上で静かに出航を待っていた。しばらくするとフィリピン航空の大型機が離発着する隣町のカリボ空港から大型バスが船着場に到着した。大勢の観光客が堤防の上からどかどか駆け下りて来た。あっという間に、三隻のボートが満杯になった。古老が合図を出した。島に向かって勢い良く競い合いながら出航となった。空は既に赤くなりかかってきており、日没が近づいていることを知らせていた。茂木は前に座っている千代菊と菊千代が波の揺れに合わせて上下するのを眺めていた。歩くくらいの速さでバンカーボートは進んでいる。急ぐ旅ではなかった。今はただ、運命も何もかも、すべてを波の動きに任せるしかなかった。夕焼けが日本を追われて来たという寂しさをいっそう強烈なものにしていた。千代菊は色々な想いがこみ上げてきて、ハンカチで目を覆ってしまった。菊千代はすくっと立ち上がり、茂木の隣に移って来て、茂木の腕に顔を埋めてしまった。今は波に任せるしかないと何度も自分に言い聞かせていた。きれいな夕日がボラカイの海に沈んだ。
「菊ちゃん、しばらくの辛抱だよ。また京都に帰れる日は必ず来るから心配するな。だから、しばらく日本のことは忘れよう。」
「うちは茂木はんと一緒ならどこでも平気どす。」
「ねえ、菊ちゃん。ここではその芸妓言葉は止めにしようよ。日本のことも京都のことも今は忘れることにしようじゃないか。いいね。」
「そうね、そうしますね。」
茂木は菊千代の顔を自分の胸から軽く外して、腕の中へ移し変えた。空も海もボラカイ島もすべてがうす紅色に染まっていた。四人はすべてを波に任せていた。
実在しないお金
実在しないお金
機体は先程から着陸にむけて高度を徐々に下げてきている。茂木は最後部の座席で機長のアナウンスを聞きながら小型機の機内を見回していた。斜め前には菊千代と千代菊、その前にはボンボンが座っている。マニラを飛び立ってまだそんなに時間は経っていないのだが、その短い時間の中で日本で起きたいろいろな事が走馬灯のように茂木の頭の中を回っていた。外交省の高官である千代菊と菊千代の父親が公金横領の容疑で調べを受け、つい先日、逮捕された。その部下で外交官である茂木の父親もいずれは日本に呼び戻されて、調べられることになるだろうと茂木はおもっていた。何故なら自分の郵便局の口座にはどんどん理由の分からないお金が振り込まれていたからである。事件が発覚してから茂木は父親とはまったく連絡が取れなくなってしまっていた。事件の重要性から、その莫大なお金の取り扱いについて複数の父親の親しい同僚に相談してみたのだが、誰もそんなお金は知らない、外交省からは茂木の口座に振り込んだお金は一切存在していないと何度も説明を受けた。毎月毎月、残高が増えていく不気味なお金はこの世に実在していないお金だと言うのである。しかし茂木はその額の大きさと父親の立場から考えて、そのお金が国民の血税であり、発展途上の国の為に使われなければならないお金だと確信していた。茂木は日本を出る前にそのお金を外交省に返金しようと何度も努力した。ところが誰も調べようとも受け取ろうともしないのである。とても親交が深かった外交省に勤務する父の親友からも迷惑だからもう二度と来るなとまで言われた。もしそれが闇から闇へと葬り去られるお金であるならば、無理に外交省に返すこともあるまい。茂木の口座に振り込まれたお金なのだから、茂木がそのお金を心無い日本人たちが生み捨てた日比混血児の為に役立てたって問題はないだろうと考えていた。
茂木の母親は菊千代や千代菊と同じ花柳界の女だった。京都の芸妓さんだったそうである。そう同じ花柳界出身の居酒屋「川原町」の女将が言っていた。赤ん坊の頃に父親が茂木を施設に預けてしまったから、茂木は母親のことをよく知らなかった。父親と母親がどんな恋をして自分が生まれたのかも誰も語ってはくれなかった。ただ母親は外交官の父のことを信じ深く愛していたそうである。でも結局、最後まで籍には入れてもらえなかった。茂木も父親からは認知されていなかったが、それでも父親のことを尊敬し愛している。自分の事を施設に預けて、滅多に日本にいることのない父親だけれども茂木にとっては大切な家族だった。だから茂木は家族の本当の暖かさを知らない。それだけに茂木には父親から捨てられたジャピーノたちの悲しみは痛いほどよく分かるのだ。外交省が心無い日本人たちが生み捨てた恵まれない日比混血児たちに援助する気がないのであるならば、自分が代わりに外交省の闇のこの世に実在していないお金を使って、日本とフィリピンの狭間で生まれた恵まれない子たちを助けて何が悪いのだ。そう何度も何度も茂木は自分に言い聞かせていた。最高に美しい島で、誰もが羨む天国に一番近い島で不運を背負った子供たちに希望を与えることは間違っているのだろうか。当然そう使われるべきお金が運命の巡り合わせで茂木の口座にプールされていた。父親は認知していない茂木を利用したのかもしれない。茂木はそのお金を外交省に返そうと努力したが、誰も聞いてはくれなかった。検察庁に届けるべきなのか、それとも、そのお金を利用してこの美しいボラカイ島で親からも社会からも見離されたジャピーノたちに勇気と喜びを与えるべきなのかは迷うことはなかった。答えはすぐに出た。茂木はそのことでいずれ裁かれたとしても、その時まで一人でも多くのジャピーノたちが救われれば、それで良いと考えていた。
飛行機は高度を更にもっと下げてきていることが耳の鼓膜のかすかな痛みでもって分かった。機長のアナウンスはお決まりのフレーズで始まる。かなりフィリピンなまりのきつい英語で今回の搭乗への感謝で始まり、高度何メートルの説明があり、そしてまたのご利用を心よりお待ちしていますと締めくくるのだが、この機長はちょっと違っていた。乗客に窓の下を見ることをしきりに勧めていた。機長はこれから着陸するが、その前にボラカイ島をぐるりと旋回すると何度もアナウンスしていた。よくこのボラカイ島を知り尽くした機長のサービスなのだ。さらに機長はボラカイ島には飛行場がないので、隣の島に着陸する旨を伝えていた。ボンボンは英語のアナウンスがよく理解出来ないでいる千代菊と菊千代に窓の下を見るように勧めたようであった。三人は身を重ねるようにして小さな窓を覗き込んでいた。茂木も反対側の窓を隣の乗客越しに覗き込んだ。ひょうたん形のボラカイ島がどんどん近づいてきていた。白く長く続く美しい砂浜と島一杯に広がる南国特有の椰子の林、そしてこの真っ青な海と空を目の当たりにして感動しない者はきっといないだろうと茂木は心の底からそう思った。その時、機内にどよめきが湧き起こった。感動の溜め息である。誰もがボラカイ島の美しい全景を上空から眺めて感動したからだ。機体はその白いビーチに着陸するかのように高度をどんどんと下げだした。しかし飛行場が見当たらない。茂木は今度は不安な気持ちに包まれていた。海上への緊急着水なのか、一向に滑走路が現われてこないのである。それに加えて荒っぽい操縦である。わずかな時の間にいろいろな想像が茂木の脳裏をよぎった。車輪が出ないで胴体着陸する際は空港の消防車が一斉に何台も飛び出し飛行機と伴走する。まずそのシーンが頭に浮かび、次に、ここの飛行場には消防車はあるのだろうか、近くに病院はあるのだろうかと心配になってきた。やはりパイロットは海上に着水するつもりなのだろうか、感動と不安が同時に茂木だけではなく他の乗客全員の感情をも揺さぶり続け始めていた。ドスン、ドスンという音がした後、かなりの大きな衝撃が全身を襲った。キキキーというブレーキ音で無事に着陸したことが分かった。茂木はおもわずつぶってしまっていた目をゆっくりと開けて窓の外を見てみた。するとカラバオと呼ばれる水牛が真っ先に目に飛び込んできた。何と窓の外は静かな農村だった。きっとどこかに隠されているのに違いない緊急用の消防車も空港ターミナルも滑走路も茂木にはどうしても見つけることが出来なかった。飛行場と呼ぶよりはむしろよく草を刈り込んだだけの「はらっぱ」と呼んだ方がふさわしかった。飛行機はゆっくりと小さな掘っ立て小屋に近づき、ぴたりと動きを止めた。何も知らなかった乗客全員、パイロットも他のクルーも含めて、その場に居合わせた者すべてが神に感謝したのに違いなかった。その証拠に飛行機が完全に止まってからもしばらくの間、誰一人として動く者がいなかった。
茂木は飛行機から一番最後に降りた。大きく農村の澄み切った空気を吸った。茂木は千代菊と菊千代の父親や自分の父親、おそらく外交省全体を巻き込むことになるだろう嵐が通り過ぎるまでこの地で過ごすことにした。小さな飛行機を振り返って見ながら無事に着陸したことを再び感謝する茂木であった。茂木が上空から見ただけでボラカイ島はきっと千代菊と菊千代の傷ついた心を癒してくれるだろうと直感していた。追われるように日本を出発する時もマニラの混沌とした雑踏に着いた時も、千代菊と菊千代の表情は非常に暗かった。しかし、今さっき、上空からボラカイ島を見ていた二人の表情は実に明るかった。茂木は二人をボラカイ島に連れて来たことは間違いではなかったと確信していた。ボラカイ島の癒しの魔法が今の千代菊と菊千代の二人には本当に必要なのだ。そして茂木もさっき草をむさぼり食う水牛のカラバオを見た瞬間、自分自身も救われたと感じたのだった。
機体は先程から着陸にむけて高度を徐々に下げてきている。茂木は最後部の座席で機長のアナウンスを聞きながら小型機の機内を見回していた。斜め前には菊千代と千代菊、その前にはボンボンが座っている。マニラを飛び立ってまだそんなに時間は経っていないのだが、その短い時間の中で日本で起きたいろいろな事が走馬灯のように茂木の頭の中を回っていた。外交省の高官である千代菊と菊千代の父親が公金横領の容疑で調べを受け、つい先日、逮捕された。その部下で外交官である茂木の父親もいずれは日本に呼び戻されて、調べられることになるだろうと茂木はおもっていた。何故なら自分の郵便局の口座にはどんどん理由の分からないお金が振り込まれていたからである。事件が発覚してから茂木は父親とはまったく連絡が取れなくなってしまっていた。事件の重要性から、その莫大なお金の取り扱いについて複数の父親の親しい同僚に相談してみたのだが、誰もそんなお金は知らない、外交省からは茂木の口座に振り込んだお金は一切存在していないと何度も説明を受けた。毎月毎月、残高が増えていく不気味なお金はこの世に実在していないお金だと言うのである。しかし茂木はその額の大きさと父親の立場から考えて、そのお金が国民の血税であり、発展途上の国の為に使われなければならないお金だと確信していた。茂木は日本を出る前にそのお金を外交省に返金しようと何度も努力した。ところが誰も調べようとも受け取ろうともしないのである。とても親交が深かった外交省に勤務する父の親友からも迷惑だからもう二度と来るなとまで言われた。もしそれが闇から闇へと葬り去られるお金であるならば、無理に外交省に返すこともあるまい。茂木の口座に振り込まれたお金なのだから、茂木がそのお金を心無い日本人たちが生み捨てた日比混血児の為に役立てたって問題はないだろうと考えていた。
茂木の母親は菊千代や千代菊と同じ花柳界の女だった。京都の芸妓さんだったそうである。そう同じ花柳界出身の居酒屋「川原町」の女将が言っていた。赤ん坊の頃に父親が茂木を施設に預けてしまったから、茂木は母親のことをよく知らなかった。父親と母親がどんな恋をして自分が生まれたのかも誰も語ってはくれなかった。ただ母親は外交官の父のことを信じ深く愛していたそうである。でも結局、最後まで籍には入れてもらえなかった。茂木も父親からは認知されていなかったが、それでも父親のことを尊敬し愛している。自分の事を施設に預けて、滅多に日本にいることのない父親だけれども茂木にとっては大切な家族だった。だから茂木は家族の本当の暖かさを知らない。それだけに茂木には父親から捨てられたジャピーノたちの悲しみは痛いほどよく分かるのだ。外交省が心無い日本人たちが生み捨てた恵まれない日比混血児たちに援助する気がないのであるならば、自分が代わりに外交省の闇のこの世に実在していないお金を使って、日本とフィリピンの狭間で生まれた恵まれない子たちを助けて何が悪いのだ。そう何度も何度も茂木は自分に言い聞かせていた。最高に美しい島で、誰もが羨む天国に一番近い島で不運を背負った子供たちに希望を与えることは間違っているのだろうか。当然そう使われるべきお金が運命の巡り合わせで茂木の口座にプールされていた。父親は認知していない茂木を利用したのかもしれない。茂木はそのお金を外交省に返そうと努力したが、誰も聞いてはくれなかった。検察庁に届けるべきなのか、それとも、そのお金を利用してこの美しいボラカイ島で親からも社会からも見離されたジャピーノたちに勇気と喜びを与えるべきなのかは迷うことはなかった。答えはすぐに出た。茂木はそのことでいずれ裁かれたとしても、その時まで一人でも多くのジャピーノたちが救われれば、それで良いと考えていた。
飛行機は高度を更にもっと下げてきていることが耳の鼓膜のかすかな痛みでもって分かった。機長のアナウンスはお決まりのフレーズで始まる。かなりフィリピンなまりのきつい英語で今回の搭乗への感謝で始まり、高度何メートルの説明があり、そしてまたのご利用を心よりお待ちしていますと締めくくるのだが、この機長はちょっと違っていた。乗客に窓の下を見ることをしきりに勧めていた。機長はこれから着陸するが、その前にボラカイ島をぐるりと旋回すると何度もアナウンスしていた。よくこのボラカイ島を知り尽くした機長のサービスなのだ。さらに機長はボラカイ島には飛行場がないので、隣の島に着陸する旨を伝えていた。ボンボンは英語のアナウンスがよく理解出来ないでいる千代菊と菊千代に窓の下を見るように勧めたようであった。三人は身を重ねるようにして小さな窓を覗き込んでいた。茂木も反対側の窓を隣の乗客越しに覗き込んだ。ひょうたん形のボラカイ島がどんどん近づいてきていた。白く長く続く美しい砂浜と島一杯に広がる南国特有の椰子の林、そしてこの真っ青な海と空を目の当たりにして感動しない者はきっといないだろうと茂木は心の底からそう思った。その時、機内にどよめきが湧き起こった。感動の溜め息である。誰もがボラカイ島の美しい全景を上空から眺めて感動したからだ。機体はその白いビーチに着陸するかのように高度をどんどんと下げだした。しかし飛行場が見当たらない。茂木は今度は不安な気持ちに包まれていた。海上への緊急着水なのか、一向に滑走路が現われてこないのである。それに加えて荒っぽい操縦である。わずかな時の間にいろいろな想像が茂木の脳裏をよぎった。車輪が出ないで胴体着陸する際は空港の消防車が一斉に何台も飛び出し飛行機と伴走する。まずそのシーンが頭に浮かび、次に、ここの飛行場には消防車はあるのだろうか、近くに病院はあるのだろうかと心配になってきた。やはりパイロットは海上に着水するつもりなのだろうか、感動と不安が同時に茂木だけではなく他の乗客全員の感情をも揺さぶり続け始めていた。ドスン、ドスンという音がした後、かなりの大きな衝撃が全身を襲った。キキキーというブレーキ音で無事に着陸したことが分かった。茂木はおもわずつぶってしまっていた目をゆっくりと開けて窓の外を見てみた。するとカラバオと呼ばれる水牛が真っ先に目に飛び込んできた。何と窓の外は静かな農村だった。きっとどこかに隠されているのに違いない緊急用の消防車も空港ターミナルも滑走路も茂木にはどうしても見つけることが出来なかった。飛行場と呼ぶよりはむしろよく草を刈り込んだだけの「はらっぱ」と呼んだ方がふさわしかった。飛行機はゆっくりと小さな掘っ立て小屋に近づき、ぴたりと動きを止めた。何も知らなかった乗客全員、パイロットも他のクルーも含めて、その場に居合わせた者すべてが神に感謝したのに違いなかった。その証拠に飛行機が完全に止まってからもしばらくの間、誰一人として動く者がいなかった。
茂木は飛行機から一番最後に降りた。大きく農村の澄み切った空気を吸った。茂木は千代菊と菊千代の父親や自分の父親、おそらく外交省全体を巻き込むことになるだろう嵐が通り過ぎるまでこの地で過ごすことにした。小さな飛行機を振り返って見ながら無事に着陸したことを再び感謝する茂木であった。茂木が上空から見ただけでボラカイ島はきっと千代菊と菊千代の傷ついた心を癒してくれるだろうと直感していた。追われるように日本を出発する時もマニラの混沌とした雑踏に着いた時も、千代菊と菊千代の表情は非常に暗かった。しかし、今さっき、上空からボラカイ島を見ていた二人の表情は実に明るかった。茂木は二人をボラカイ島に連れて来たことは間違いではなかったと確信していた。ボラカイ島の癒しの魔法が今の千代菊と菊千代の二人には本当に必要なのだ。そして茂木もさっき草をむさぼり食う水牛のカラバオを見た瞬間、自分自身も救われたと感じたのだった。
ボラカイ島の海
ホーム・ページで4kmも続く白い砂浜、ボラカイ島の写真を公開中。
―――長編小説「ボラカイ島」奇跡の島 南 右近――――
で検索して下さい。無料!
http://www7a.biglobe.ne.jp/~minamiukonboracay/
―――長編小説「ボラカイ島」奇跡の島 南 右近――――
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日本人への復讐
日本人への復讐
渡辺社長は帰りの飛行機の座席を再確認する為にホテルのフロントからセーフティーボックスに預けておいたパスポートと航空券、そして分厚い財布を受け出した。ホテル内にある航空会社のデスクに行き、そこで帰りの座席の再確認を済ませた。社長はだいぶマニラに慣れてきたせいもあって、航空券、パスポート、そして分厚い財布をフロントに再び預けることなく、それらを持ったまま、ホテルの外に食事に出てしまった。ヨシオにも何か美味いものを食わせてやろうとおもっていたことが、渡辺社長の判断を狂わせていた。社長はヨシオから「置き屋」を紹介されて、ヨシオのことをボンボンよりもよっぽど役に立つ奴だと考えていた。ホテルの周りをぐるりと回ってみた。案の定、ホテルの裏側でリヤカーの上で眠りこけているヨシオを見つけた。ヨシオのサンダルは半分磨り減っていて足がサンダルの外に飛び出ている。着ているシャツもボロボロでおまけに汗臭かった。これではヨシオを連れてレストランには入れないなと社長はおもった。食事の前にまず買い物だな、ヨシオに衣服を買ってやらないことにはどこへも入れないからと、社長は珍しく仏心をだしていた。
「おい、ヨシオ、起きろ。カム。ショッピング。一緒に行こう。」
その社長の声に驚いてヨシオは飛び起きた。確かに、このヨシオの格好ではレストランだけでなく、他の店にも入ることは出来ないなと社長はおもった。そうか、露店の店なら誰も文句は言うまい、まず社長は教会のまわりにたくさんある露店の店へヨシオを連れて行った。ヨシオは衣類にはまったく興味がなく、でかい春巻きを揚げている店の前で立ち止まっていた。
「腹が減っているのか?よし、何がほしい。買ってやるぞ。」
社長がそう言うと、ヨシオは生姜が入ったおかゆと大きな春巻きを指差した。社長はヨシオの分だけ買って、それをヨシオに与えた。自分ではバケツの水で食器を洗っている露天の食べ物は食べる気がしなかった。ヨシオはそんなことはかまいもせずに、ぺろりと全部きれいに平らげてしまった。次に社長はヨシオに新しい服と履物を買い与えた。ところがヨシオの奴、それらを身につけようともせずに、大切に小脇に挟んだまま、大事そうに持っていた。きっと後でそれらを売る気でいるのだと社長はおもった。しかし、それはおまえに買ってやったものだと言ったところで、所詮、通りすがりの観光客の言うことなどは聞くはずもないだろう、ヨシオの好きなようにさせるしかないと社長はおもった。
しばらく渡辺社長はヨシオと昼間のしらけた歓楽街を歩いた。人の出入りが多いファーストフード店の前を先に歩いていたヨシオが急に曲がった。社長もヨシオについて小さな路地に入った。すると、小さな階段があり、ヨシオは社長に手招きをしてから、その階段を上って行ってしまった。昨夜、「置き屋」を紹介してくれたヨシオのことを社長はすっかり信用してしまっていた。社長も階段を上がって二階の部屋に入った。営業しているのか、それとも休業しているのかさえも分からない店に入った。かなり化粧の厚い婆さんが一人で部屋の隅に退屈そうに腰掛けていた。その婆さん、渡辺社長のことを見るなり、突然、生き返ったように元気になって、流暢な日本語で社長に話しかけてきた。
「あら、いらっしゃい。社長さん。」
この街ではどこへ行っても。誰であろうと、中年の男性は皆、「社長さん」なのである。渡辺社長の場合は正真正銘の社長であるから、別に「社長さん」と呼ばれても違和感はなかった。日本ではさほどでもない男がこの街に来て、「社長さん」「社長さん」と何度も呼ばれると、もうそれだけで舞い上がってしまって、財布の紐がゆるんでしまうのである。
部屋の隅に積み上げられていた椅子をヨシオが一つはずして、社長のために運んできた。
戦時中に覚えたのだろうか、その日本語は、他の連中の片言の日本語とは違って、かなりうまい。婆さんが言った。
「今、ヨシオが可愛い子を連れて来ますからね、ちょっと待っていて下さい。どうぞ、そこにおかけになっていて下さい。お飲み物は何がよろしいですか?」
「ああ、何でもいいよ。あのガキ、ヨシオという名前なのか。」
「ええ、父親は日本人ね。」
「母親は今どこにいるんだ。」
「ヨシオの母親はもう死んでしまいましたよ。」
「そうか、それは気の毒にな。」
しばらくすると、ヨシオが肌の白い女の子を連れて戻って来た。どう見てもその子は十五六にしか見えない。確かにやり手ババアが言うように可愛い子だと社長はおもった。
「社長さん、五百ペソでいいよ。」
「安すぎるな。」
「昨日、田舎から来たばかりね、病気はないよ。大丈夫ね。」
「そんなことあるわけないだろう。それより本当に五百ペソでいいのか?」
「そうですよ。安いでしょう。社長さんはどこのホテルですか?」
「あそこのでかいやつだ。」
「ああ、あそこはダメね。この子はIDをもっていないから、入れないよ。モーテルへ行くといいよ。」
「そうか、ショートだから五百でいいのか。」
「いえ、違うよ。朝まで五百ペソね。モーテル代は社長さんね。百ペソぐらいね。」
「そうすると、全部で六百ペソか。」
「あとは社長さん次第ね。この子がかわいそうだから、チップあげてくださいな。田舎から出て来たばかりだから。」
渡辺社長は考えることもなく、すぐ分厚い財布から五百ペソ紙幣を取り出して、やり手ババアに渡した。
外に出るとヨシオがすばやく手をあげてタクシーを停めてくれた。その田舎出身の女の子が先に乗り込み、ドライバーにモーテルの名前を告げていた。何が田舎から出で来たばかりだ。田舎から出て来たばかりの子がすぐにモーテルの名前が言えるはずがないだろうが、嘘っぱちじゃないかと社長はおもった。しかしそんなことは社長にはどうでもいいことだった。社長も大きな身体を屈みながらタクシーに詰め込んだ。席に着いてから、ふと車の外を見ると、ヨシオが笑っていた。社長はヨシオが笑うのを初めて見た。おかゆを与えた時も衣類を買ってやった時も、ヨシオはにこりともしなかった。そのヨシオが歯を出して笑っていた。
タクシーはしばらくマニラ湾沿いのロハス通りを走り、パサイ市のモーテルに滑り込んだ。この辺りには安いモーテルが乱立していた。ゲートを入ると数人の男どもが車に走り寄って来て、空き部屋を指し示した。そのまま部屋までタクシーに手をつきながら一緒に走り、社長がタクシーから降りると、チェックアウトの時間や超過料金の説明を一通りして、すぐに部屋の使用料を徴収して戻って行ってしまった。タクシーの運転手が短い距離だったのにもかかわらず、百ペソとふっかけてきた。田舎から出て来たばかりの子が執拗に食い下がり、五十ペソにまけさせてタクシーを追い返した。これで社長はこの子を完全に信用してしまった。
部屋に入り、まず社長がシャワーを浴びた。もちろん分厚い財布やパスポートは風呂場に持って入った。日本の知り合いからシャワーの間に財布を盗まれたという話を聞いていたからだ。念には念を入れた。さっとシャワーを浴びて部屋に戻ると、田舎から出て来たばかり子が何の恥じらいもなく浴室に入った。部屋のテーブルの上にはよく冷えたビールが用意されていた。喉が渇いていた社長は一気にそのビールを飲み干した。田舎から出て来たばかりの子がこんなによく気がつくはずがないとおもいながら、もう一本飲んだ。そこで、 急に激しい睡魔が渡辺社長を襲ってきた。
社長は目を覚ましたが、異常に頭が重たいことに気がついた。吐き気もしている。しばらくそのまま、ぼんやりと天井を見つめていた。次に部屋の中を見回してみた。誰もいなかった。ここはどこだ、社長は自問自答した。そうだ、モーテルの部屋だ。次の瞬間、さっと起き上がり、社長はもう一度、部屋の中の様子を点検した。女の子も財布もパスポートも航空券もすべて無くなっていることに気づくのに数秒とかからなかった。慌てて立ち上がり、カーテンを開けてみたが壁だった。安いモーテルには窓などなかった。今度はドアを開けて外の様子を見てみると、もう、すっかり明るくなっていた。シャワールームから女の子が出て来て、「おまえの名前は」と聞くと、「トシコ」だという返事が返ってきたことまで覚えていた。その後のことがどうしても思い出せなかった。記憶がすべて消えてしまっていた。渡辺社長はおもった。これが睡眠薬強盗なのだろうか。話には聞いていたが、まさか、自分がこうしてかかってしまうなんて、まったく情けないと痛切に感じた。
外に出てモーテルの出口を後にする時、後ろで男たちが笑う声が聞こえてきた。ここで警察に連絡するほど社長の英語力はなかったし、どう見ても昨日の子は未成年であった。警察に連絡すれば、逆に逮捕される可能性があった。無一文になった渡辺社長はホテルを目指して歩き始めた。ホテルに事務所がある日本の旅行社に助けを求める為に、ただひたすら歩いた。乞食のヨシオ、昨夜のトシコという女の子、そしてあの薄暗い店にいたやり手ババアもみんなグルだったのだと社長は歩きながら考えていた。今頃は分厚い財布の中を見て三人とも驚いていることだろう。
ヨシオもトシコも社長と同じの血を引く日本人だった。そして流暢な日本語を話すことが出来た、あのやり手ババアは昔、日本軍によって無理やり従軍慰安婦にさせられた悲しい過去を持つ女だった。だから、日本人を何度騙しても騙し足りない、日本人への復讐をし続けることだけが彼女の生きる喜びだった。あの当時のことは決して忘れはしない、心も身体もずたずたにされた。絶対に忘れることなんか出来ない。やり手ババアはヨシオとトシコと死ぬまで日本人への復讐を続けるつもりだった。
渡辺社長は帰りの飛行機の座席を再確認する為にホテルのフロントからセーフティーボックスに預けておいたパスポートと航空券、そして分厚い財布を受け出した。ホテル内にある航空会社のデスクに行き、そこで帰りの座席の再確認を済ませた。社長はだいぶマニラに慣れてきたせいもあって、航空券、パスポート、そして分厚い財布をフロントに再び預けることなく、それらを持ったまま、ホテルの外に食事に出てしまった。ヨシオにも何か美味いものを食わせてやろうとおもっていたことが、渡辺社長の判断を狂わせていた。社長はヨシオから「置き屋」を紹介されて、ヨシオのことをボンボンよりもよっぽど役に立つ奴だと考えていた。ホテルの周りをぐるりと回ってみた。案の定、ホテルの裏側でリヤカーの上で眠りこけているヨシオを見つけた。ヨシオのサンダルは半分磨り減っていて足がサンダルの外に飛び出ている。着ているシャツもボロボロでおまけに汗臭かった。これではヨシオを連れてレストランには入れないなと社長はおもった。食事の前にまず買い物だな、ヨシオに衣服を買ってやらないことにはどこへも入れないからと、社長は珍しく仏心をだしていた。
「おい、ヨシオ、起きろ。カム。ショッピング。一緒に行こう。」
その社長の声に驚いてヨシオは飛び起きた。確かに、このヨシオの格好ではレストランだけでなく、他の店にも入ることは出来ないなと社長はおもった。そうか、露店の店なら誰も文句は言うまい、まず社長は教会のまわりにたくさんある露店の店へヨシオを連れて行った。ヨシオは衣類にはまったく興味がなく、でかい春巻きを揚げている店の前で立ち止まっていた。
「腹が減っているのか?よし、何がほしい。買ってやるぞ。」
社長がそう言うと、ヨシオは生姜が入ったおかゆと大きな春巻きを指差した。社長はヨシオの分だけ買って、それをヨシオに与えた。自分ではバケツの水で食器を洗っている露天の食べ物は食べる気がしなかった。ヨシオはそんなことはかまいもせずに、ぺろりと全部きれいに平らげてしまった。次に社長はヨシオに新しい服と履物を買い与えた。ところがヨシオの奴、それらを身につけようともせずに、大切に小脇に挟んだまま、大事そうに持っていた。きっと後でそれらを売る気でいるのだと社長はおもった。しかし、それはおまえに買ってやったものだと言ったところで、所詮、通りすがりの観光客の言うことなどは聞くはずもないだろう、ヨシオの好きなようにさせるしかないと社長はおもった。
しばらく渡辺社長はヨシオと昼間のしらけた歓楽街を歩いた。人の出入りが多いファーストフード店の前を先に歩いていたヨシオが急に曲がった。社長もヨシオについて小さな路地に入った。すると、小さな階段があり、ヨシオは社長に手招きをしてから、その階段を上って行ってしまった。昨夜、「置き屋」を紹介してくれたヨシオのことを社長はすっかり信用してしまっていた。社長も階段を上がって二階の部屋に入った。営業しているのか、それとも休業しているのかさえも分からない店に入った。かなり化粧の厚い婆さんが一人で部屋の隅に退屈そうに腰掛けていた。その婆さん、渡辺社長のことを見るなり、突然、生き返ったように元気になって、流暢な日本語で社長に話しかけてきた。
「あら、いらっしゃい。社長さん。」
この街ではどこへ行っても。誰であろうと、中年の男性は皆、「社長さん」なのである。渡辺社長の場合は正真正銘の社長であるから、別に「社長さん」と呼ばれても違和感はなかった。日本ではさほどでもない男がこの街に来て、「社長さん」「社長さん」と何度も呼ばれると、もうそれだけで舞い上がってしまって、財布の紐がゆるんでしまうのである。
部屋の隅に積み上げられていた椅子をヨシオが一つはずして、社長のために運んできた。
戦時中に覚えたのだろうか、その日本語は、他の連中の片言の日本語とは違って、かなりうまい。婆さんが言った。
「今、ヨシオが可愛い子を連れて来ますからね、ちょっと待っていて下さい。どうぞ、そこにおかけになっていて下さい。お飲み物は何がよろしいですか?」
「ああ、何でもいいよ。あのガキ、ヨシオという名前なのか。」
「ええ、父親は日本人ね。」
「母親は今どこにいるんだ。」
「ヨシオの母親はもう死んでしまいましたよ。」
「そうか、それは気の毒にな。」
しばらくすると、ヨシオが肌の白い女の子を連れて戻って来た。どう見てもその子は十五六にしか見えない。確かにやり手ババアが言うように可愛い子だと社長はおもった。
「社長さん、五百ペソでいいよ。」
「安すぎるな。」
「昨日、田舎から来たばかりね、病気はないよ。大丈夫ね。」
「そんなことあるわけないだろう。それより本当に五百ペソでいいのか?」
「そうですよ。安いでしょう。社長さんはどこのホテルですか?」
「あそこのでかいやつだ。」
「ああ、あそこはダメね。この子はIDをもっていないから、入れないよ。モーテルへ行くといいよ。」
「そうか、ショートだから五百でいいのか。」
「いえ、違うよ。朝まで五百ペソね。モーテル代は社長さんね。百ペソぐらいね。」
「そうすると、全部で六百ペソか。」
「あとは社長さん次第ね。この子がかわいそうだから、チップあげてくださいな。田舎から出て来たばかりだから。」
渡辺社長は考えることもなく、すぐ分厚い財布から五百ペソ紙幣を取り出して、やり手ババアに渡した。
外に出るとヨシオがすばやく手をあげてタクシーを停めてくれた。その田舎出身の女の子が先に乗り込み、ドライバーにモーテルの名前を告げていた。何が田舎から出で来たばかりだ。田舎から出て来たばかりの子がすぐにモーテルの名前が言えるはずがないだろうが、嘘っぱちじゃないかと社長はおもった。しかしそんなことは社長にはどうでもいいことだった。社長も大きな身体を屈みながらタクシーに詰め込んだ。席に着いてから、ふと車の外を見ると、ヨシオが笑っていた。社長はヨシオが笑うのを初めて見た。おかゆを与えた時も衣類を買ってやった時も、ヨシオはにこりともしなかった。そのヨシオが歯を出して笑っていた。
タクシーはしばらくマニラ湾沿いのロハス通りを走り、パサイ市のモーテルに滑り込んだ。この辺りには安いモーテルが乱立していた。ゲートを入ると数人の男どもが車に走り寄って来て、空き部屋を指し示した。そのまま部屋までタクシーに手をつきながら一緒に走り、社長がタクシーから降りると、チェックアウトの時間や超過料金の説明を一通りして、すぐに部屋の使用料を徴収して戻って行ってしまった。タクシーの運転手が短い距離だったのにもかかわらず、百ペソとふっかけてきた。田舎から出て来たばかりの子が執拗に食い下がり、五十ペソにまけさせてタクシーを追い返した。これで社長はこの子を完全に信用してしまった。
部屋に入り、まず社長がシャワーを浴びた。もちろん分厚い財布やパスポートは風呂場に持って入った。日本の知り合いからシャワーの間に財布を盗まれたという話を聞いていたからだ。念には念を入れた。さっとシャワーを浴びて部屋に戻ると、田舎から出て来たばかり子が何の恥じらいもなく浴室に入った。部屋のテーブルの上にはよく冷えたビールが用意されていた。喉が渇いていた社長は一気にそのビールを飲み干した。田舎から出て来たばかりの子がこんなによく気がつくはずがないとおもいながら、もう一本飲んだ。そこで、 急に激しい睡魔が渡辺社長を襲ってきた。
社長は目を覚ましたが、異常に頭が重たいことに気がついた。吐き気もしている。しばらくそのまま、ぼんやりと天井を見つめていた。次に部屋の中を見回してみた。誰もいなかった。ここはどこだ、社長は自問自答した。そうだ、モーテルの部屋だ。次の瞬間、さっと起き上がり、社長はもう一度、部屋の中の様子を点検した。女の子も財布もパスポートも航空券もすべて無くなっていることに気づくのに数秒とかからなかった。慌てて立ち上がり、カーテンを開けてみたが壁だった。安いモーテルには窓などなかった。今度はドアを開けて外の様子を見てみると、もう、すっかり明るくなっていた。シャワールームから女の子が出て来て、「おまえの名前は」と聞くと、「トシコ」だという返事が返ってきたことまで覚えていた。その後のことがどうしても思い出せなかった。記憶がすべて消えてしまっていた。渡辺社長はおもった。これが睡眠薬強盗なのだろうか。話には聞いていたが、まさか、自分がこうしてかかってしまうなんて、まったく情けないと痛切に感じた。
外に出てモーテルの出口を後にする時、後ろで男たちが笑う声が聞こえてきた。ここで警察に連絡するほど社長の英語力はなかったし、どう見ても昨日の子は未成年であった。警察に連絡すれば、逆に逮捕される可能性があった。無一文になった渡辺社長はホテルを目指して歩き始めた。ホテルに事務所がある日本の旅行社に助けを求める為に、ただひたすら歩いた。乞食のヨシオ、昨夜のトシコという女の子、そしてあの薄暗い店にいたやり手ババアもみんなグルだったのだと社長は歩きながら考えていた。今頃は分厚い財布の中を見て三人とも驚いていることだろう。
ヨシオもトシコも社長と同じの血を引く日本人だった。そして流暢な日本語を話すことが出来た、あのやり手ババアは昔、日本軍によって無理やり従軍慰安婦にさせられた悲しい過去を持つ女だった。だから、日本人を何度騙しても騙し足りない、日本人への復讐をし続けることだけが彼女の生きる喜びだった。あの当時のことは決して忘れはしない、心も身体もずたずたにされた。絶対に忘れることなんか出来ない。やり手ババアはヨシオとトシコと死ぬまで日本人への復讐を続けるつもりだった。


