小説「ボラカイ島」南右近

南の島に4kmも続く白い砂浜がある。ボラカイ島はすべての人を癒してくれる。

恋、再び

恋、再び


 ネグロス島の南部にあるドゥマゲッティは明るい町だ。大きな建物があまりないせいか、その分、空が大きく、南国の空が街並みの大半を占めている。あまり背丈はないが南国特有の樹木も多い。広い道を歩いていると、すれ違うのは車ではなくて、白い制服を着た女学生ばかりがやたら目立つ。ただそれだけでも心が自然と和んでくる。正樹は理沙と彩花が暮らしているこの静かな学園都市ドゥマゲッティが好きになった。この町に来てまだそんなに日は経っていないのだが、ボラカイ島にいる時とは違った心の安らぎを正樹は感じ始めていた。それは岡田姉妹のせいなのかもしれないが、早苗を失った悲しみから解き放たれ、気持が明るくなっていた。
 正樹は地元の漁師に聞いた熱帯魚観察のスポットへ彩花を誘った。二人を乗せたバンカーボートは30分ほど真っ青な海を走ったところで小さな孤島に先端を乗り上げて停まった。
 先にボートから降りた正樹は板をつたって降りてくる彩花の手を支えながら言った。
「この島の周りは熱帯魚の天国だそうですよ。日本の熱帯魚マニアがびっくりするような高価な魚が平気な顔をして泳いでいると船頭さんが言っていました。」
彩花はその細い足で海に降り立ち、海面を見渡しながら言った。
「でも、ここで簡単に熱帯魚たちを捕まえても、日本へ運ぶのは大変なことよ、多くの魚たちが運搬の途中で命を亡くしてしまうわ。私はだいたい水槽で熱帯の魚を飼うことには絶対反対だわ。無理だとおもうのよ!海水魚の飼い方は特に難しいし、私たち人間の身勝手な観賞のためだけにさ、魚たちが死ぬのは悲しいことだわ。人間のエゴよ。水槽内の塩分濃度のミスとか、ヒーターの故障なんかで、遠く故郷から無理やり連れてこられた魚たちが、あっけなく死んでしまうなんて、とてもかわいそうなことだわ。」
「でも、魚たちを鑑賞することで病んだ人々たちが癒されることもある。色彩の鮮やかな熱帯魚たちは趣味として多くの人々から支持されていることも事実だよ。」
「そうだけれど・・・。」
 二人は海から出て、少し歩き、かなりせり上がった砂浜を息を切らしながら上った。大きな岩の上に腰を下ろすと、紫がかった青い海と真っ青な空が二人の正面に広がった。この小さな島には人家はないようだった。
「彩花さんは交換留学の後、東京のICUに戻ってどうするの?」
「卒業したら、また、ここに戻って来ますわ。ここの大学の看護師のコースに編入するつもり。」
「看護士ですか。」
「ええ、そのつもりです。卒業したら正樹先生のところで雇ってもらえませんか?」
「うちは高い給料など払えませんよ。気心の知れた仲間と一緒にやっているだけの小さな診療所ですからね。もしよかったら、うちの診療所の親病院とでも言うのか、ケソン市にある大きな病院を紹介しますよ。」
「大きな病院は研修の時だけで結構、私は先生のところがいいな。早苗さんのようにはなれないけれど、先生のお手伝いがしたいの。」
「彩花さん、僕はね、時々、医者という職業が嫌になることがあるのですよ。患者さんの命を救えなかった時に、その家族の人たちから、涙を流しながら責められたりしたら、ひどく落ち込みますよ。高い崖の上から突き落とされたと同じ感覚になってしまいます。僕ら医者は完全でもないし、神でもないのです。その能力にも限界がありますからね。どんなに患者さんの命を奪った重篤な病について説明しても、大切な家族を失った者にとって、そんな説明は分かりませんよ。その病を理解しろと言う方が所詮、無理な話ですからね。」
「でも、先生、ある意味では現代の医学はすでに神様の領域にまで踏み込んでしまったのかもしれませんね。心臓外科の世界では手術中に人工心肺を使って、患者さんの心臓を停止させてから治療にあたることもありますし、臓器の移植も、人間の力を超えてしまっているのでは?」
 少し離れた細長い島の上に白い綿雲がかかっており、海鳥たちもゆっくりと旋回していて、気持ちの良い日だった。打ち寄せる波を見ながら正樹は言った。
「その通りですね。学生時代からの友人ですがね、外科医として超一流の技術を身につけてから、とても傲慢になってしまった奴がいますよ。毎日、幾人もの患者さんたちの命と向き合っているうちに知らず知らずのうちに人間が変わってしまって、彼は患者さんを選ぶようになってしまった。目の前で助けを求めている患者さんよりも病院の利益や評判、自分の名声を優先するようになってしまいました。」
 悲しげに彩花が言った。
「先生もご存じのように、日本人が、中国や東南アジア諸国、アメリカ、そして、このフィリピンにも臓器移植をするために、たくさんの人たちが海を渡って来ますよね。その患者さんたちにしてみれば、生きるための手段というか、最後の決断なのでしょうが、そこにはいろいろな問題が生じてしまいます。日本国内であっても臓器の移植は様々な倫理的なトラブルがあるのに、それが世界を巻き込んで、しかも金銭が絡んだ斡旋業者が入ってくると、これは複雑で厄介な問題になってしまいます。でも、移植手術をしなければ命がなくなってしまうのだから、患者さんは真剣ですよ。募金でその高額な費用を工面したりもします。国によって法律も宗教も違います。死刑囚の臓器を提供している国もあります。社会的な状況でお医者様は神様にもなり、悪魔にもなります。」
「確かに、そうですね。」
「日本の法律は臓器移植に関して、他国より何十年も遅れているとおもいません?」
「その通り。例えば、体内には腎臓は二つありますよね、そのどちらかが病んで摘出する場合があるでしょう。その患者さんは腎臓が一つになっても生きていけますからね。・・・さて、その取り出した腎臓なのですけれど、・・・悪い部分だけを切り落とせば、まだ使えるわけです。両方の腎臓が病んでしまって人工透析をしながら腎臓移植の順番を何十年も待っている人々にその摘出され修復された腎臓を移植することは日本の法律では禁じられています。もし、その摘出した腎臓を完璧に修復して、適合する患者さんに移植することが出来るようになれば、もっともっと多くの命が救えると僕はおもいますよ。」
「人工透析も、週に三回、血液の浄化を数時間、それをずっと続けなければいけないのですよね。水分の補給も制限され、生活にも色々制限がありますね。とても苦痛ですよね。」
「医学の進歩は確かにすばらしいことです。しかし進歩すればするほど、様々な倫理的問題が生まれてきます。例えば羊水検査です。生まれてくる赤ちゃんの染色体の型が分かってしまう。ちょっとだけ他の子供たちと違った特徴を持った子を親は誕生前に選別してしまうわけです。」
「先生、それは命を選別してしまうということですか?」
「そうです。同じ人間なんていないのです。みんな、それぞれ違った特徴を持って生まれてくるのです。お腹の中に宿った神聖な命を親のエゴで絶って良いわけがない!」
「でも、現実問題として、羊水検査の結果で中絶してしまう親が多いというわけですね。」
「ええ、残念なことにそうです。しかし、そのことを誰も責められない。」
 そこで二人の会話は途絶えた。打ち寄せる波の音だけが長く続いていた。彩花は両手を海に向かって突出し、その手を今度は頭の後ろで組み背筋を伸ばした。彩花のさわやかな香りが正樹のことをやさしく包んだ。青空に向かって立ち上がった彩花が今度は正樹のことを見下ろしながら言った。
 「難しいことはいいの。あたしは・・・・、ただ、先生と一緒にいたいだけなの。こんな素直な気持ち・・・あたし、はじめてです。こんなことを言える勇気、あたしにはないもの、きっと早苗さんが・・・あたしの中にいるのね。・・・でも、そんなことは、もう、どうでもいいことよ・・・。あたし、決めたわ。日本には戻らずに、このままこちらの学校に・・・編入しようとおもうの。看護師になるわ。」
 正樹もまったく同じ気持ちだった。面倒な恋愛の手順はもうごめんだった。素直に彩花のことが愛しかった。彩花が手を差し伸べ、正樹もその手をしっかりと握りしめた。二人の気持ちはその手を通して確かに通じ合った。

 それからの二人は何をするのにも、いつも一緒だった。まるで母親にすがる幼子のように正樹は彩花のそばを離れなかった。それは傍から見ていて滑稽なほどだった。

あっという間に半年が過ぎ、そして一年が経っても、正樹はボラカイ島へも東京にも戻らなかった。
彩花が言った。
「正樹さん、島に帰らなくていいの?」
「ボラカイ島のことかい?大丈夫、診療所はヨシオがちゃんとやってくれているからね。」
「理沙が言っていたけれど、正樹さんの診療所は患者さんたちから治療費をいただかないから、経済的にはとてもたいへんだって、きっと、ヨシオさん、困っているわよ。」
「損得なんか考えて、島の診療所なんか出来ませんよ。」
「でも、少しは、・・・患者さんたちからいただいたら・・・・どうです? また日本へ出稼ぎに行かなければなりませんよ。」
「僕はね、今、何も考えたくないのです。無責任と言われても仕方がありません。こんなこと、初めてかもしれないな。でもね、僕は、今、とても幸せなのですよ。彩ちゃんが学校に行っている間はおじいさんの手伝いをしながら、ゆっくりと一日を過ごす。夜は月明かりの下で彩ちゃんと時を忘れて語り明かす。ただそれだけの毎日、同じことの繰り返し、何も起こらない平凡な日々だけれど、僕はね、とても大きな喜びを感じているのですよ。」
「あたしだって、正樹さんがこちらに来てから、毎日が楽しくて、楽しくて、どうか、この幸せが、ずっと、続きますようにと、放課後、学校のチャペルで祈っているわ。人を好きになるのに理由などありませんものね。こんな気持ちは初めてだわ。」

 二人は何度も夜中に起きては崖のラウンジへ行った。ラウンジと言っても、民家を改造した質素なもので、崖に張り付くように建てられた民家のリビングとテラスが一体となり、窓はなく、そこから180°海が見下ろせた。そこらからの眺望はすばらしく、昼間は空が9割で海が1割、それにさわやかな風も加わる絶景だった。これが夜になると別世界となり、星空と波の音だけの静かな空間になった。この大開口のテラスは二人だけの恋の舞台だった。
「ボラカイ島の正樹さんのおうちは海の近く?」
「ああ、海に面しているよ。ベランダを出て数十歩も歩けば、足は海の中さ。でも、こことはまったく比べ物にならないよ。小さな掘っ立て小屋だからね。嵐で何度も屋根が吹き飛んで、継ぎ足し、継ぎ足しで、穴がいくつも開いていますよ。雨がそこからポタリポタリとね、下で待ち受けるバケツと協奏曲を奏でます。夜はうるさいくらいですよ。
でもね、あそこの海を見ているとね、人間の営みがどんなに小さく情けないかを感じてしまうよ。反省させられる。不思議な島だよ、ボラカイ島はね。」
「ねえ、今度の休みに、あたし、ボラカイ島へ行きたいわ。ダメかしら?」
「休みはいつだい?」
「来月よ。」
「来月か、・・・おじいさんの具合次第だな。」
「おじいちゃん、そんなに悪いの?」
「口止めされていたけれど、隠し通すのにも限界がある。誰が見ても・・・、おじいさんの体は細くなり過ぎましたからね。いろいろ試してみましたが、抗がん剤の治療は断念しました。今は、痛み止めだけを投与しています。」
「あたし、聞くのが怖くて、・・・・・・、知らないふりをしていたけれど、やはり、そうでしたの。・・・もう、手術の可能性は?」
「ありません。無理です。それに、おじいさん自身がそれを望んでいません。」
「そうだったの。先生、おじいさんにもボラカイ島の海を見せてあげたいわ。」
「・・・・・・、いいでしょう。三人でボラカイ島へ行きましょう。あの島はこれまでに数々の奇跡を生んできましたからね。もしかすると・・・・・・・。」

 しかし岡田拓実じいさんはネグロス島から出る気はまったくなかった。彩花が誘うと、
「わしはこの地で最後を迎えたい。わしはいい、お前たちだけで行ってきなさい。」
と言い残して散歩へ行ってしまった。
ふくれ面になってしまった彩花に正樹は言った。
「一緒にボラカイ島に行こうと提案したのは間違いでしたね。・・・失敗でした。・・・・おじいさんの気持ち、僕にはよくわかりますよ。」
「あたしは、わからないわ。いいわ、二人だけで行きましょうよ。」
「いや、今回はやめときましょう。ボラカイ島へ行くチャンスはこれからいくらでもありますからね。」
正樹のその判断は正しかった。岡田のじいさんはそれから間もなく寝たきりになってしまった。村人が交代で岡田じいさんの世話をしにやって来た。そしてその中に毎日やって来る老婆と娘の姿もあった。知らせを聞いて東京から理沙も飛んで来たが、理沙と彩花にはその老婆と娘が岡田じいさんのもっとも大切な人であるということがわからなかった。それは岡田じいさんの生涯を通しての秘密だったからだ。
正樹は彩花と理沙に言った。
「東京にいる皆さんに連絡をして下さい。おじいさんの・・・・・・。」
「わかりました。あたしが連れて来ます。」
理沙が正樹の言葉を最後まで聞かずに答えた。

 理沙たちは、結局、間に合わなかった。パスポートや航空券の手配に時間がかかってしまったからだ。岡田じいさんの最後を看取ったのは隣町から来たその老婆と娘の二人だけだった。静かな最後だったと正樹に言い残して、二人は静かに去って行った。もちろん、岡田じいさんの葬式に顔を出すこともなかった。正樹には二人の気持ちが痛いほどよくわかった。日本から来たじいさんの家族への配慮だったのだ。戦争によって引き裂かれた国境を越えた家族の絆、誰も悪くはないのだ。あの戦争はまだ終わっていなかったのだ。

 これほど涙の少ない葬儀もなかったかもしれない。悲しみ以上の何か大きな感情に包まれていた。岡田じいさんのことを誰もが惜しみ、じいさんの偉業を村人たちはみな称え感謝していた。

 抗がん剤治療を中止することを二人で決めた夜、岡田拓実じいさんは正樹に言った。
「正樹先生、いろいろありがとう。もう、わしには思い残すことはありませんよ。納得いくまで、・・・十分に生きることができた。・・・とても良い人生でしたよ。」
 岡田拓実の人生とはいったい何だったのだろうか?あの戦争に青春と戦友を奪われ、戦地で巡り合った妻と娘とも引き裂かれた。帰国後は荒廃しきった日本を立て直すために家族を犠牲にして働き通した。そして退職後はすべての貯えを使って、ネグロス島で困窮していた村人たちに生きる糧を与え、結局、無理をし過ぎて病魔に命を奪われた。何をもってして、すばらしい人生と言えるのか、正樹は考えていた。一言も言葉にはならなかった。
「わしには彩花と理沙がいる。二人の孫に命のバトンを渡すことが出来た。それこそがわしが生きてきた証だよ。命がつながった。」
「では、子孫を残すことが出来ない者の、子供を産むことが出来なかった者の役割とは、人生の意味は何なのでしょうか?命をつなぐことが出来なかったわけですから。」
「自分を愛してくれている者を愛するのは当たり前の話だよ。家族を大切にすることは当たり前の事だ。親が子供を愛するのは当然のことだ。子供が親を大切にすることも自然だ。正樹先生、自分と血のつながりがない者を愛することこそが最も意味があることだとわしはおもうよ。どんなに愛し合って結ばれた夫婦でも子供に恵まれなければ、離婚する確率が高い。愛だけじゃ、愛が覚めた時に何もなくなってしまうからからね。子供がいることで夫婦の関係も保たれる場合も多い。でもね、先生、子供に恵まれなくても、それでも寄り添って、自分の子供たちに与える愛情を他の子供たちに与えることが出来れば、もっと価値の高い人生と呼べるのではないかね。自分の家族に注ぐ愛情を他人に惜しみなく注ぐことが出来れば、人生の価値はもっと高まる。でも、それは簡単なことじゃない。自分の子供を育てること以上にな。」

 ドゥマゲッティの町から学生たちの姿が消えた。休みに入ったからだ。彩花と正樹の二人もボラカイ島に向かった。

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小説「ボラカイ島」 南右近

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孤独

孤独

 樫村直人は必ずまたボラカイ島に戻って来ると言い残して日本へ一人で帰って行った。その三日後、理沙はネグロス島のおじいさんと姉のもとへ正樹を連れて向かうことになった。隣のパナイ島へ渡るボート乗り場で、見送りに来ていたナミが正樹に言った。
「正樹さん、やっぱり行くことにしたんだ。」
 正樹は返事をせずにコクリとうなずいた。理沙がナミにお礼を言った。
「いろいろお世話になりました。本当にありがとうございました。」
「また、いらっしゃいね。いつでも、大歓迎だから・・・・・・。」
「ええ、ありがとうございます。」
「小さい島だから、どうしても退屈。ほら、話に飢えちゃって、きっとよ、また来てね。そうだ、今度はお姉さんと一緒にいらっしゃいよ。」
「ええ、必ず。ナミさんもドゥマゲッティに遊びに来て下さいね。」
「そうね、あたしはいつも暇だから、きっと行くわよ。」

 二人を乗せたバンカーボートはゆっくりとボラカイ島を離れ、次第にそのスピードを上げていった。それはまるで飛び魚のように元気よく青い海を飛び跳ねていた。やがてボートはそれを見送るナミの視界から消えていった。


(ネグロス島南部)
 岡田拓実はわかっていた。もう自分の命が残り少ないことを、それは年齢からくる寿命ではなくて、自分の体が重篤な病に侵されていることを知っていた。そのことを孫の理沙や彩花、そして一緒にネグロス島で暮らす周りの者たちにはしらせずに慎重に振舞っていた。しかし、医者である正樹は岡田拓実と会ったその日のうちに、彼の顔色の悪さや仕草に気がついていた。
「岡田さん、一度、精密検査を受けられてはいかがですか?」
 岡田拓実は顔色を変えずに正樹の質問にゆっくりと答え始めた。その言葉は途切れ途切れではあったが、十分に正樹の心を震わせた。
「そうですか、無理でしたか、・・・・・・やはり正樹さんにはかくせなかったようですね。以前、テレビのニュースであなたのことをお見かけしましたよ。あなたがお医者様であることも知っています。そう、・・・分かってしまいましたか。・・・・・・でも、もう少しだけ待って下さい。どうしてもやっておきたいことがあるのでね。」
「いつからですか?」
「・・・・・・以前から調子は悪かったんですがね、先月あたりから、急に痛みが激しくなってきましてね、・・・・・・。でもね、この村の人々は、やっと、自給自足の生活ができるようになってきたんだ。あとは、私がいなくなっても、何とか現金収入を得られるようにしてやらないと、・・・・・・。」
「ご親戚で過去に病で、例えば癌でお亡くなりになった方はいらっしゃいますか?ご両親、ご兄弟は?」
「私は終戦をこの島でむかえました。戦争が終わって、日本へ帰ると、父も母も、それから・・・たった一人の姉も東京のあの大空襲で行方不明になってしまっていました。」
「すみませんでした。嫌なことを聞いてしまいましたね。お許し下さい。ではご親戚の方で、誰か病気で亡くなられた方はおありですか?・・・・・・ご記憶にありませんか?」
「親戚も、みんな、あの戦争で・・・・・・・亡くなりました。東京の焼け野原に立ち尽くし、あの時、私は涙を出しながら孤独というものを本当に実感しましたよ。」
「そうでしたか。」
「私はあの時から小さな希望を見つけて、一日一日を大切にすることにしました。大金持ちになってやろうとか、総理大臣になってやろうなんて一度もおもったことはありませんでした。だってそうでしょう、正樹先生、戦争が終わっても何が起こるか分かりませんからね。交通事故で突然に命を失うことだってあるんだ。先のことなんか誰にも分らないものね。将来のことを悩んで心配のあまりに今現在を無駄にしてはもったいないですからね。」
「確かにおっしゃる通りです。」
「人間、生まれてくる時もあの世に行く時も一人なんだ。人はどうあがいたって孤独なんです。そのことをしっかりと分かっておかないといけない。孤独だからといって寂しがってばかりいたら何も出来やしないですからね。」
「そうですね。人は孤独ゆえに人生をともに過ごしてくれる人をさがすのかもしれませんね。孤独な者同士がそれを癒そうとおもって一緒になる。結婚したりもするわけですね。でも何年かすると、子どもたちは自分の生活がありますからね。当然、巣立っていくし、パートナーともいずれは別れなくてはならない。病になることもあるでしょう。結局、人はみんな最後は孤独なんです。それは仕方がないことなんですね。」
 岡田拓実と正樹は理沙の姉の彩花が運んできた手料理に箸をすすめながら話を続けた。理沙が日本からみやげに持ってきた日本酒も惜し気もなく出されていた。二人は屋外の棚田がよく見渡せるテーブルで、とても初対面とはおもえない、極めて打ち解けた二人だけの宴を開いていた。
「正樹先生、先生は日本でコンビニでバイトをしていらっしゃると、理沙が言っていましたが、何かこの島の人たちの生活が安定する、・・・アイディアというか、方法はないでしょうかね?」
「それは難しい質問ですね。この国の人々が誰もが望むことですものね。そうですね、お店では、最近ではマンゴーやバナナ、それに、ナタデココなどが、また人気商品となっていますね。ナタデココもそうですけれど、僕はココナッツにとても興味がありますね。まあ、ココナッツはココナッツオイルのようにたいへん貴重なものも含めて、まったく捨てるところがないほど素晴らしいものです。以前からずっと考えていることなんですが、あの殻の繊維質をうまく利用できないでしょうかね。固い殻をほぐして園芸とか、食品とは別の方面に使えないでしょうかね。土の代わりとか肥料とか、うまく加工して商品にならないでしょうかね?」
「園芸ですか。・・・・・・例えば、道路のセンター分離帯にある植木とか、・・・・・・。」
「なるほど、それはおもしろいかもしれませんね。」
「燃料として使われることもありますが、捨てられている殻をもらってきて再利用する。」
「いいかもしれませんね。」
 二人は村人の喜ぶ顔を思い浮かべながら、話に花を咲かせた。正樹と岡田拓実は考え方や生き方に共通したところが多く、初対面からすぐに打ち解けた良い関係になった。

「岡田さんはタロウという芋焼酎をご存じですか?」
「ええ、よく知っていますよ。よくテレビで話題になる幻の焼酎ですよね。」

 ちょうどその時、彩花がチャップソイと呼ばれる野菜料理をテーブルに並べていた。正樹は早苗にそっくりな彩花にも一緒に話をしないかと誘った。彩花は妹の理沙も連れて来るからと言ってキッチンへ戻っていった。・・・・・・途切れた話の続きを正樹がした。

「そうです。その芋焼酎です。川平太郎さんがこちらで新しい品種の紫芋をみつけて、それで焼酎を作ったところ大当たりしたものです。僕らは商売のことを考える時、どうしても日本とのつながりを考えてしまいますよね。でも、太郎さんは日本を抜きにして、こちらで成功した人です。長い目で見たらどうでしょう。ここの村人のことを本当に考えたら、為替の変動や両国間の関係に左右されないこの国の中だけで生活の道を切り開いた方が良いのかもしれませんね。」
 岡田拓実は正樹の話を聞きながら笑顔でテーブルの上にひろげられた料理に箸をつけていた。

 しばらくすると、理沙と彩花がエプロン姿でやってきた。岡田と正樹はテーブルを挟んで向かい合って座っている。二人はそのテーブルの両脇にわかれて座った。覚悟はしていた正樹だったが、早苗とそっくりな彩花が隣に座り、さすがに平常心ではいられなかった。彩花の登場は正樹の心を大きく揺さぶり始めていた。理沙が岡田拓実に不思議なことを言い始めた。
「おじいちゃん、さっきね、お姉ちゃんが変なことを言っていたのよ。正樹さんと会ったのは今日が初めてなのに、前にも会ったような気がするんだって。」
 瞬間ではあったが、理沙のその一言でもって、その場にいた者はみな凍りついた感覚に陥っていた。岡田が彩花に聞いた。
「どういうことなんだ。」
 彩花は恥ずかしそうに言った。
「それが、自分でもよく分からないのよ。でも、どこかで正樹さんに会ったような気がして、・・・・・・とても不思議なの、よくあるじゃない、前にもこんな風景があったなんて、そんな感じが、初めて来た場所なのに前にもここに来たことがあるような錯覚が、・・・さっきから、ずうっとそんな感覚が続いているの。」
 理沙が茶化した。
「デージャーブーか、・・・もしかしたら早苗さんの霊がお姉ちゃんに乗り移ったとか?」
 岡田が理沙のことを叱りつけた。
「こら、理沙、馬鹿な事を言うものじゃない。失礼だぞ!・・・・・・正樹さん、ごめんなさいね。気にせんで下さい。」
「いや、いいんですよ。僕の方こそ、彩花さんに謝らないといけないのかもしれない。あまりにも亡くなった早苗とよく似ているものだから、もしかすると、おかしな目で彩花さんのことを見てしまっていたのかもしれない。正直に言うと、彩花さんは、ただ早苗に似ているというだけでなく、仕草もまったく早苗と同じなんです。だから、僕もさっきから早苗が戻ってきたような気がして、・・・そんなことがあるわけがないのにね。すみません。」
「いいんですよ。」
「彩花さん、趣味は何か?」
「旅行かな、あたしの好きな場所は京都、何度行っても飽きないわね。京都の街を歩くのが大好きです。」
 驚きを隠せない正樹であった。恐る恐る次の質問をしてみた。
「京都の、・・・・・・京都のどこがお好きですか?」
「そうね、一番好きな場所は、詩仙堂、・・・・・・そう詩仙堂だわ。きっと、正樹さんは知らないわよね、小さいなお庭だから。」
 正樹は真っ青になり完全に言葉を失ってしまった。早苗だ、今、隣に座っているのは早苗にまちがいない、それは偶然にしてはありえないことだった。早苗が一番愛してやまなかったお庭の名前を彩花が言ったからだ。素早く理沙が正樹の心の変化に気がついた。
「どうしたの、正樹さん。お顔が真っ青だわ。」
「いえ、大丈夫です。・・・・・・いや、ちょっと飲み過ぎたのかもしれないな。」

 正樹はまだ早苗が元気だった頃ことを思い出していた。二人で砂浜に寝転がり、冗談で死後の世界について話し合ったことがあった。
「ねえ、もし、どちらかが先に死んでしまったら、死後の世界がどういうものなのか、知らせに来ない。」
「いいよ。化けて出てくるわけだね。」
「そうよ。」
「でも、何か合図を決めておかないといけないな。二人にしか分からない秘密の合図をさ・・・、そうしないと他の悪い霊に騙されちゃうからね。」
「そうね、じゃあ、何にしましょうか?」
「早苗ちゃんの一番好きな場所はどこ?」
「そうね、京都の詩仙堂かしら。正樹さんは?」
「そうだな、僕は今、二人が寝転がっているホワイトサンド・ビーチかな。」
「この浜じゃあ、みんなが好きだもの、念のために、もう一つ、二人にしか分からない合言葉を決めておかないとダメよ。」
「じゃあ、二人に共通した事柄がいいな。」
「分かったわ、二人とも、とてもつらい失恋しているから、失恋にしましょう。」
「失恋ね、・・・よし、それにしよう。でも、どうやってその話を確認するんだい?」
「そうね、・・・・・・わかんないや。まあ、いいっか、そんなこと。」
 そこで二人の話は途切れてしまった。

 理沙の言葉で正樹は再び現実に戻された。理沙はしばらく東京の実家に帰っていたから、岡田が急にやせ細ってしまったことにやはり気がついていた。
「おじいちゃん、ちょっと見ないうちにスマートになったわね。何かダイエットでもしたの?」
「ああ、お前が留守の間にな、ちょっと調べたいことがあってな、村中を歩き回っていたからね。少し痩せたかもしれないな。」
「そうなんだ。」
 彩花はいつも岡田のそばにいたから祖父の体の変化には気がつかなかった。
「そう言われてみると、おじいちゃん、痩せたわね。」
 正樹が岡田に助け舟を出した。
「いや、人間、食べ過ぎ、肥り過ぎは体には良くありませんよ。バランスのとれた食事が大切ですね。アスリートやスポーツ選手は別として、普通の生活をしている分には小食で十分なんですよ。そうね、岡田さんくらいの細さがベストじゃないのかな。」
 医者の正樹の言葉で理沙と彩花は安心した様子だった。その夜は月がくっきりと四人の頭上に輝いていた。正樹がぽつりと言った。
「お月さんはさびしくないのですかね。ああやって、ぽつんと一人ぼっちだ。僕らのことを見守りながら照らしてくれているんだろうけれど、僕は月を見る度に人も孤独なんだと知らされますよ。」
 岡田はさっき正樹に言ったことをまた繰り返した。
「人間、生まれてくる時も死ぬ時も独りなんだよ。自分は孤独だと嘆いてばかりいてはだめだよ。人間は所詮、孤独であることを承知した上でしっかりと最後まで生き抜いていかなくてはいけない。特に、これからの日本では高齢化がどんどん進んでいって、一人ぼっちのお年寄りが激増するだろう。誰にも気づかれずに孤独死する老人がたくさん出てくる。例え、一人であっても、あとどれくらい生きられるのかと悩んでばかりいてはだめだよ。どんなことだっていいんだ、小さな希望をみつけて毎日を感謝しながら生き続けることが大切なんだよ。」
 そう言いきってから、岡田はゆっくりと立ち上がり、正樹に言った。
「私はこれで失礼して寝させてもらいますよ。あとは若い者だけで・・・・・・。」
 少し飲み過ぎたようだったが、岡田の足どりはまだしっかりしていた。理沙が付き添って、寝室へ岡田を連れっていった。正樹は不思議なことに、その夜はいくら飲んでも酔うことがなかった。彩花と正樹が二人っきりになった。彼女が言った。
「正樹さんは失恋したことがおありですか?」
 「失恋」という言葉を聞き、正樹が動揺しないはずはなかった。早苗との秘密の合言葉だったからだ。早苗だ!目の前にいる彩花は早苗に間違いないと正樹はおもった。いっこうに返事をしない正樹に向って、彩花が再び言った。
「ごめんなさいね。失礼なことを聞いちゃったみたいね。」
「いえ、いいんですよ。僕は二度、失恋しましたよ。二度とも死別しました。」
「あたしってバカね、何でそんなことを突然に聞いちゃったのかしら、どうかしているわ。本当にごめんなさいね。許して下さい。」
「いいんですよ。早苗さん。」
「え?・・・・・・・。」
「失礼。・・・・・・僕はちっとも気にしていませんから。彩花さんはどうですか。失恋したことはおありですか?」
「はい、あたしも正樹さんと同じように二回も失恋しましたのよ。でも、どちらも片想い、恋と呼ぶには恥ずかしいものでしたけれど。」
「失恋の失という字ですがね、よく見ると人ノ土と書きますよね。人は命を失って、最後には土に戻る。それから失恋という字の恋の字ですがね、無理をして亦(また)と読めば、また心を失って孤独になるとも解釈できますよね。さっき、岡田さんが言っていましたけれど、人は結局はみんな孤独なんですよ。家族がいればまだ救われますが、家族もいないで、しかも近所の人たちからも社会からも厄介がられて生きていくのはとても寂しいものですよ。自分の存在を忘れられるだけではなくて、みんなから嫌がられて暮らすわけですからね。」
「もし、正樹さんがそんな町の厄介者として扱われるようになったら、どうしますか?小学生や中学生のいじめのような目にあったらどうしますか?」
「そうだな、僕だったら、朝早く起きて町中のゴミを拾って歩くでしょうね。誰も見ていなくてもいいんだ。それは小さなことだけれど、自分も何かみんなの為に役に立っているとおもうだけで心は救われますからね。でも、みんなから無視されて生きる続けることは本当に孤独でしょうね。例えば、足腰が動かなくなって、社会のために何もしてあげることが出来なくなった時の苦しみは計り知れないでしょうね。」
「では、まったくの寝たきりの状態に正樹さんがなったらどうしますか?」
「それはきびしい質問だね。岡田さんも言っていたけれど、小さな希望を見つけるようにするね。どんなことだっていいんだ。窓の外の植物を見て、その花が咲くのを待つことだっていいしね。」
「理沙がボラカイ島で日比混血児にたくさん会ったと言っていましたが、島には孤児院か何かあるのですか?」
「いや、孤児院ではありませんよ。彼らは自分の意志で共同生活をしているだけですからね。彼らは以前はマニラの大都会の裏道で孤独な暮らしをしていた連中です。無責任な日本人の父親にも・・・、それだけじゃあない、完全に母親や社会からも無視されてきた子供たちです。だから誰よりも人は孤独だということを知っている子どもたちです。」

 理沙がテーブルに戻って来た。
「おじいちゃん、何だか苦しそう。ベッドに横になる時もすごくゆっくりだったわ。それに陰から見ていたんだけれど、何だか辛そうだった。どこか痛いのかしら?」
 彩花が大きな目を見開いて正樹に言った。
「おじいちゃん、さっき正樹さんに何か言っていませんでした?お医者様の正樹さんに、どこか体が痛いとか・・・・・・何か?体の不調を相談していませんでしたか?」
 正樹は岡田がもう少しだけ待って下さいと言った言葉をおもいだいしていた。
「いえ、何も言っていませんでしたよ。」
「そうですか。」

 夜とはいっても、ここは南国で30度近くはある。理沙は日本酒に氷を入れて、正樹にそれを勧めた。
「正樹さん、どうぞ。・・・・・・あの、少しここにいてくれませんか?あたし、おじいちゃんのことが心配だわ。」
 彩花は即座に言った。
「まあ、理沙ったら、勝手なこと言って、無理よ、正樹さんは忙しい人なんだから。」
 何も予定のない正樹であった。
「いえ、僕なら大丈夫です。しばらくこの島で勉強しようとおもってやって来たんですから、お邪魔でなければ、しばらくこちらにおいてくれませんか。」
 その言葉を聞いて、彩花の表情が明るくなった。
「邪魔だなんて、どうぞ、お好きなだけここにいて下さい。お願いします。」
「ありがとう。」
 まんまるの月が三人を照らしていた。都会では決して味わえない満点の星、そのきらめきを仰ぎながら三人は夜遅くまで話し合った。まっさきに睡魔に襲われたのは理沙だった。二人を残してさっさと寝室へ入ってしまった。また二人っきりになってしまった。正樹は前に早苗が嬉しそうに、それも自慢げに語ってくれたことを思い出した。それを彩花にぶつけてみた。
「さっき京都のお庭がお好きだと言っていましたが、竜安寺の石庭についてはどんな感想をお持ちですか?」
「竜安寺の石庭、・・・・・・ぽつんぽつんと石が置いてあるだけのお庭ですね。」
「そうです。十五個の石が置いてあるだけのお庭です。」
 彩花は突然突きつけられた正樹の質問に迷いはなかった。それは本当に不思議な感覚だった。どこかで聞いた訳でもないのに自然と口から禅の教えが出てきたのだった。
「その十五個の石ですけれど、あのお庭の縁側からはどこからみても十五個全部の石が見えないように設計されているんですよ。つまり全部が見えなくてもよろしい、欲張るなということですね。あまりうまく説明はできませんけれど、自分がこれまでに得たこと、何でもよろしいのですけれど、小さなこと一つにでも満足して感謝することが大切だと教えているような気がします。こうして自分は四十歳まで生きることが出来きました感謝します。今日もおいしい食事がいただけました、本当にありがとう。今日も家族みんなが健康であることに感謝しますとか、自分が受けた恩恵に感謝して満足することを知りなさいと竜安寺のお庭は語ってくれているとおもいます。」
「禅でいう知足の境地ですね。先のことを悲観して悩むことなく生きる最高の方法ですね。もっと、あれも欲しいこれもしたいと欲張って生きることよりも、ここまでこうして生きることができたと感謝することが大事なんですね。・・・・・・それ、誰からお聞きになりましたか?・・・・・・何かの本でお読みになったとか?」
「いえ、何も。・・・・・・今、ふと思いついただけです。ごめんなさいね。偉そうなことを言っちゃって。」
「そうですか。・・・・・・では、彩花さんはボンボンという人物はご存じですか?」
「いえ、知りません。・・・・・・どうしてですか?」
「実はね、早苗が以前、今、彩花さんが言ったと同じことを話してくれたことがあります。彼女がね、ボンボンと茂木さんと三人で京都を旅した時の話を何度もしてくれましてね、
ただ石ころを置いただけの、あの殺風景なお庭を初めて見て、ボンボンがね、十五個全部が見えなくてもいいんだと言い出したと、私に何度も嬉しそうに話して聞かせてくれたんです。」
「そうですか。それで、そのボンボンというお方は今どこにいらっしますの?」
「ボラカイ島の丘の上です。早苗の隣の墓で茂木さんと一緒にボンボンも眠っていますよ。」
「そうでしたか。」
 そこでその夜は眠ることになった。テーブルの上を二人で片づけて流し場へ運んだ。彩花は洗い物を続けたが、正樹は来客用の寝室に入った。ベッドの上に横になってもいろいろな感情が渦巻いていた。彩花と出会えたことは奇跡と言っても過言ではなかった。すべての偶然が確かに彩花とつながっていた。その夜はいつまでたっても眠りにつくことが出来なかった。

 正樹のネグロス島での生活はまるで夢のようだった。何の事件も起こらずに平和な日々がたんたんと続いた。ここはあの幻の竜宮城なのだろうか、すべてを忘れ、気がついてみると一か月の時が流れていた。夕食の後、岡田の爺さんと話すことがすこぶる面白くて、正樹をこの島に引き留めていた。いや、一番の理由はやはり彩花の存在だったのかもしれない。







 樫村と理沙の歓迎会は深夜にまでおよんだ。病で天国へ行ってしまった早苗にそっくりな理沙の姉がテレビの画面に映し出されてからは、話題は早苗とその理沙の姉の彩花のことばかりになった。早苗の親友だったナミが言った。

「世の中には自分とよく似た人が何人かいると言われているけれど、本当だったんだ。理沙ちゃんのお姉さん、こんな言い方をしてごめんなさいね、気味が悪いくらい早苗とよく似ているわ。ねえ、正樹さん、正樹さんもそうおもうでしょう。」

正樹は揺れ動く心とは裏腹に平静を装った。

「ああ、よく似ている。でも、早苗は早苗で、理沙ちゃんのお姉さんは理沙ちゃんのお姉さんだよ。まったくの別人さ。」

「正樹さんは彩花さんに会ってみたくない? あたしは、会ってみたいな。双子だってあんなには似ていないわよ。ドラマじゃないけれど、もしかしたら早苗と理沙ちゃんのお姉さんの彩花さんは双子だったりして、そうでないとしても遠い昔に、先祖が一緒ということもあるわよ。早苗は長野の戸隠の生まれ。理沙ちゃんたちのお生まれは?」

 少し飲みすぎてしまった理沙が、ハッと我に返り、ナミの質問に答えた。

「東京です。東京生まれの東京育ちです。長野には親戚は一人もおりませんし、戸隠へは一度も行ったことはありません。」

「それじゃあ、違うか。早苗とは縁がなさそうね。でも、ボラカイ島の魔法が正樹さんと理沙ちゃんを引き合わせた。そして、彩花さんも・・・・・・。」

 正樹が話を逸らせた。ネグロス島にいる理沙と彩花のおじいちゃんについてまた話し出した。

「理沙ちゃんのおじいさんは退職してから、単身、ネグロス島に渡られて農業指導をされている。その話を聞いて、僕は理沙ちゃんのおじいさんにとても会ってみたくなりました。理沙ちゃんにしても、お姉さんの彩花さんにしても、そのおじいさんのそばにいたいと望んでいらっしゃるのだから、きっと、すばらしいおじいちゃんに違いない。ネグロス島へ行ってみたくなりました。」

「ほら、やっぱり。正樹さんは理沙ちゃんのおじいさんじゃなくて、彩花さんに会ってみたいんだ。まあ、いいか。・・・ネグロス島って、砂糖の島でしょう。だけど最近では飢餓ですっかり有名になってしまった島でしょう。」

 ナミがそう言ってから、樫村に新しいビールを渡した。正樹が話を続けた。

「そうだよ。理沙ちゃんのおじいさんは戦争をあの島で体験されている。ネグロス島の人々が砂糖の価格が暴落して危機に陥ったと知ると、退職金を理沙ちゃんのおばあちゃんに半分残して一人でネグロス島で農園を開いたそうですよ。つらい体験をした人にしか、他の人の悲しみや苦しみは理解できないものです。苦しい体験はまちがいなく人を成長させてくれますからね。理沙ちゃんのおじいさんは、きっとすばらしい人にちがいないと僕はおもいますよ。会ってお話をたくさん聞きたいですね。」

 さっきから黙って飲み続けていた樫村が口を開いた。

「確かに、こんなにかわいらしいお嬢さんたちが、何も不自由しない東京を離れてさ、何もないネグロス島で暮らしているんだから、理沙ちゃんたちのおじいさんはよっぽどの人だな。魅力的な人に違いないな。それに年寄りを大切にしないのが現代の若者たちの流行なんだろう。だけど、理沙ちゃんたちは偉いな。本当に偉い!」

 正樹が思い出したように言った。

「最近行われた世界的なアンケート調査なんだけれど、お年寄りを大切にする国のランキングなんだ。フィリピンが堂々のトップで二番目が韓国でしたよ。日本は残念ながら十位以内には入っていなかったようです。この調査結果がなくても、僕は前々からフィリピンの人たちは自分の親やお年寄りを大切にするやさしい国民だということは感じていました。日本人がどんなに偉そうなことを言ったって、この国民性には敵いませんよ。それに最近では、老人大国になってしまった日本ではお年寄りの介護をする若者が足りなくて、隣国に助けを求めているのが現実ですものね。」

 飲み過ぎて真っ赤な顔をしたナミの夫の佐藤も口をはさんだ。

「老人の経験と智慧を大切にしない国はいつか衰退しますよ。若者は時として老人の体験と智慧を学ぶべきだ。子供もお年寄りも一緒に暮らすのが東洋のすぐれた伝統だったはずなんだが、日本はどうなってしまったんだろうか。悲しいかぎりだ。」

 正樹が佐藤の意見に同感した。

「確かにその通り。戦争を体験した者にしか、その悲惨さを語り継ぐことは出来ませんものね。元来、戦いが好きな人間を、誰かがさ、戦争をさせないようにしなくてはならないからね。ストッパー役が必要なんだ。その役目ができるのは老人しかいないよ。」



 その時、静まりかえった岬の豪邸の庭に一台のトライシクルが入ってきた。中古のオートバイのエンジン音は正樹たちが話をしているリビングの中にまで響いた。次の瞬間、リビングの扉が開き、白衣を着た医師のヨシオが飛び込んで来た。

「正樹先生、急病人だ。僕では無理だ。ヘリを頼んで下さい。」

 正樹がまず立ち上がって、ヨシオと一言二言、話をして、それからゆっくり振り返って、佐藤の方を向いて言った。

「佐藤さん、すみませんが署長に無線でヘリを飛ばしてくれるように頼んでくれませんか。ケソン市の病院へ患者さんを運びたいので、お願いします。」

 佐藤が迅速に動いた。

「承知、ヘリはすぐに手配しましょう。他に何か?」

「いえ、それだけで結構です。」

ヨシオと正樹は庭に待たせてあったトライシクルに飛び乗り、闇夜の中に消えて行ってしまった。



樫村直人が言った。

「何だ、あいつ、医者かよ。ただのコンビニのおやじだとばかりおもっていたのに、俺の一番嫌いな医者だったとはな。」

 ナミが答えた。

「正樹さんはここの子供たちの健康管理や島の人たちの診療を無料で引き受けている立派なお医者様ですよ。」

 樫村が吐き捨てるように言い返した。

「俺のお袋はな、手術で殺されたんだ。だから医者はみんな信用できんよ。」

 その言葉を聞いて、みんな黙ってしまった。重くて暗い空気がしばらく続いた。それを吹き飛ばしたのは、介護の勉強をしてきた理沙だった。

「樫村さんのお気持ちはよく分かりますわ。あたしも、もし樫村さんと同じように自分の母を手術で失えば、医学に対して不信感を持ちますもの。きっと、あたしもすごくお医者様を憎むことでしょうね。でもね、ネグロス島のおじいちゃんのところにいて、少しずつ分かってきたことがあるのです。日本では考えられなかったことでしたけれど、たくさんの人々があたしたちの目の前で死んでいくんです。それでね、おじいちゃんと村の人たちの話を聞いていて多くのことを感じました。人は愛する人の死に直面して、やっと愛の深さを知るんだなってね。おじいちゃんはよく聖書の言葉を引用して村人と話をしていますわ。私たちの身体は病にもかかるし、とても壊れやすい土の器のようなものだって。日本では人が死ぬと火葬場へ運んで行って、すぐに火葬にしてしまいますでしょう。こちらではコンクリートの箱の中へそのまま入れてしまいますのよ。地方によっても違いますけれど、火葬はしませんね。日本だって、以前は土葬の習慣はあったそうです。現代では先祖代々のお墓に遺骨は入れずに山や海に散骨したり、遺骨を固めて置物にしたり、ペンダントにして肌身離さず持っている人もいますよね。ビルの中に回転式の共同のマンション墓地もあったりして、時代とともに葬儀の形式も墓地も多種多様化してきていますけれど、でもやはり、人はみんな土に還るんじゃないかしら。地球に還ると言った方がいいのかな。おじいちゃんは、人にはみんな定められた定命があるんだって言っていたわ。死のうとおもっても、定められた命が尽きるまでは人は死ねないものだって、結局、私たちは毎日を一生懸命に生きていくしかないそうです。明日、いや事故で何時間後に死ぬことだってあるんですからね。だから、今現在をしっかりと生きるしかないんだって。大切なことは壊れやすい土の器ではなくて、そのもろい土の器の中に入れるものなんだって。きれいな澄んだ水なら、器が壊れても、地面にしみ込んで、その水によって新しい芽が生えてくるでしょう。受け継がれていくものは容器ではなくて、その中のものだけなんです。」

 樫村が理沙に質問した。

「理沙ちゃんは天国とか極楽があるとおもうかね? 死んだ後の世界さ、そんなものがあるとおもいますか?」

「死後の世界があるのかないのかは、死んだ人にしか分からないものでしょう。生きている私たちには分からないことだわ。それだったら、あるとおもった方が素敵じゃない。」

 ナミが言った。

「確かに、医療の進歩は倫理的に多くの問題を引き起こしているわね。今までは、当り前の死だったものが、そうでなくなってしまっているもの。医療は厳粛であるはずの死を時として無駄にしてしまうこともありますものね。最新鋭の機器を備えた病院は余計なことをやりすぎてしまうこともありますものね。」



 岬の豪邸の外は熱帯特有のスコールが襲っているようで、ものすごい雨音がしていた。その場にいるものは皆、さっき出て言ったヨシオと正樹たちのことが気にかかった。医者をあんなに嫌っている樫村直人でさえも正樹たちのことが心配になっていた。もう、誰もアルコールを口にする者はいなかった。重たい空気が広いリビングを支配していた。



 一時間、いやもう少し経った頃だった。豪邸の中庭に再びトライシクルの音が響きだした。正樹が患者さんと付き添いの母親を連れて戻って来た。正樹とトライシクルのドライバーによって豪邸の中に運び込まれてきたのは中年の男性だった。激しい痛みが続いているらしく、その表情は苦しみに満ちていた。連れ添って来た母親はもう腰が曲がってしまっていて、80歳をとっくの昔に超えているように誰の目にも映った。ヘリはすでにマニラを飛び立ったという連絡が入っていた。母親は涙声で正樹に話しかけていた。

「こんなにやさしい子がどうしてこんな目にあうんでしょうね。」

 正樹が言った。

「おかあさん、まもなくヘリが到着しますからね。」

しかし、事態はかなり深刻だった。ソファーの上に寝かされた患者の心臓が停止したことに正樹はすぐに気がついた。

「樫村、ちょっと手伝ってくれんか。」

「ああ、いいよ。」

「足を持ってくれんか、二人で患者さんを床におろすから。」

「わかった。」

「俺が人工呼吸をするから、その合間に心臓を両手で強く押してくれないか。

ナミさん、医務室から電気ショックのあの装置をお願いします。」

「分かったわ、今、とってきます。」

 正樹の言葉があまりにも真剣で気迫がこもっていたので、医者嫌いの樫村はそれを拒否することは出来なかった。二人は汗びっしょりになりながら、心臓マッサージと人口呼吸を交互に何度もおこなった。電気ショックを与えても、再び、心臓は動くことはなかった。その場にいたすべての人々の願いも空しく、その患者さんは永遠の眠りについてしまった。泣き崩れる母親が何度も同じことを繰り返していた。

「何で、こんなにやさしい息子が、こんなに苦しんで死ななければならないのかしら。先生、どうしてなんですか。」

 誰もこの母親をなぐさめる言葉など持ちあわせてはいなかった。正樹は彼女の息子を抱き上げてソファーの上に寝かせた。たった一つだけ救われたことがあった。それはさっきまであんなに苦しんでいた表情が安らかな笑みにかわっていたことだった。母親はその顔を何度もさすりながら涙を流していた。

「この子は、わたしたち家族のために何度も出稼ぎに行ってくれたんですよ。熱い熱い砂漠の国へね。仕事がない時だって、いつだって、みんなのために尽くしてくれたやさしい子なんだ。そんな優しい子がどうしてこんなに苦しいおもいをしなくてはいけないのですか。何で、あたしより先に行くんだね。あたしが代わってやりたかったよ。・・・・・・。」

 どんな言葉もきっとこの母親の慰めにはならないだろう。正樹は年老いた母親の肩をしっかりと抱きしめて言った。

「あなたの息子さんはみんなの苦しみをぜんぶ背負って召されたんですよ。それは選ばれた本当にやさしい人にしかできないことなんです。選ばれし者にしか許されていないことなんですよ。立派な息子さんでしたね。見てごらんなさい、息子さんの顔を、安らかに眠っていますよ。もう苦しんでなんかいませんよ。・・・本当にお悔やみ申し上げます。」

 その正樹の言葉を聞いて、母親はもう返事をしてくれない息子にむかって話しかけていた。

「あんたはさ、あのジーザス・クライストと同じだよ。お礼を言うよ。ありがとう。みんあ、どれだけ助かったことか、あんたがいたから、みんな生きてこれたんだ。みんなの苦しみを、あんたはひとりで・・・・・・。ありがとうよ。・・・どうか、ゆっくり休んでおくれ。あんたは、あたしの自慢の息子さ、・・・・・・。」



 ナミも理沙も涙が溢れていた。樫村の目も赤かったが、小さな声で理沙に聞いた。

「ジーザス・クライストって誰だ?」

 理沙が小さな声で答えた。

「キリストさんですよ。」

「十字架のキリストさんかね。」

「ええ、そうよ。」



 ヘリコプターが岬の豪邸のヘリポートに到着した。正樹はすぐに外に飛び出して、パイロットに事情を説明した。ヘリはエンジンを切らずに、そのまま飛び去って行った。それを聞いていたトライシクルのドライバーが帰ろうとしたので、正樹はそれを止めた。

「悪いがもう少しそこにいてくれ。親子を家まで送ってやってくれないか。あっ、その前に警察へ行ってくれるかね。ちょっと待っていてくれ。」

リビングに戻った正樹はすぐに最上階の佐藤の書斎へ行き、今度は無線で患者の到着を待っているケソン市の病院へ連絡を入れた。簡単だったが丁寧に礼を述べて無線を切った。次に豪邸の庭の手入れをお願いしているスタッフに外で待機しているトライシクルで島の警察に行って巡査を連れてくるように指示を出した。



 大切な息子を失ってしまった母親は自分の膝の上にその息子の頭をのせながら、まだ温かい息子の顔をさすっていた。もう、さっきのように泣き叫んではいなかった。樫村直人はじっと目をつぶって溢れ出す感情を抑えている様子だった。正樹が日本語でそっと言った。

「死因は解剖してみないと分かりませんが、たぶん、樫村さんのお母様と同じ大動脈解離でしょう。心臓に血液が流れこんでショック死したと考えられます。ケソン市の病院でも、この時間に、この大手術ができる医者がいたかどうか疑問ですね。どんなに医学が進歩しても死を征服することは出来ませんよ。肉体は老化し、時には病気にもなります。いずれは朽ち果てる運命にあります。それが人の定めなのですからね。命にはかぎりがあるわけで、そのかぎられた命をどう生きるかが、人に与えられた勤めなのかもしれませんね。重要なことは身体よりも健やかな心を保ち続けることですよ。医者の力には限界があります。」

 理沙が言った。

「正樹さんは、うちのおじいちゃんと同じだわ。同じことをおじいちゃんも言っていたわ。」

「僕はただ、当り前のことを言っただけですよ。」



 樫村直人は考えていた。さっき心臓マッサージをしていた自分はある意味、自分の母親を殺した医者と同じではないのかと、・・・。俺は確かに命を救おうとしていた。俺は医者ではないが、あの医者と同じことをしていたのかもしれない。・・・そんなことを無意識のうちに感じていた。ボラカイ島の魔法が樫村直人に効き始めていた。



 まだ暗いが、夜明けは確実に近づいていた。正樹が理沙を誘った。

「理沙ちゃん、ちょっと海へ出てみませんか?」

「こんな時間にですか?」

「出ると言っても、舟で沖へ出るわけではありませんよ。少し浜辺を散歩してみませんか。」

「ええ、喜んで。」

 二人は岬の豪邸のテラスから階段を降りて浜辺へ向かった。

「けっこう月の光だけでも歩けるでしょう。」

「ええ。」

 理沙が振り返って階段の上を見上げて言った。

「でも大きなお屋敷ですね。プライベート・ビーチまであるんだ。びっくりですね。」

「そうでしょう。日本で生まれ育った人には、まったく想像もできない別世界ですよ。」

二人は椰子の木の下にある流木で作られたベンチに腰をおろした。理沙が言った。

「上のお屋敷にいる子どもたちはみんな日比混血児なんですか?」

「ああ、そうですよ。マニラの裏道に捨てられていた子供たちです。以前は常時500人くらいはいましたけれど、今はだいぶ少なくなりました。現在では50人から70人の間で数はいったりきたりしていますね。成人するとみんなこの家を巣立って行きますからね。だから、ここの家で育った子供たちはね、すでに世界中に散らばっていますよ。そして、その中で成功している者たちはこの家を裏から支えてくれています。経済的にね。」

「すごいですね。」

「大きな葬儀がある時には本当に驚きますよ。訃報を聞きつけて世界中からこの家の出身者がこの岬の家に集結するんです。家の中に入りきらずにね、中庭に大きなテントが幾つも張られるんですよ。ええと数だけれど、何万人いるんだろうか?今度、名簿で調べてみます。」

「ええ、そんなにマニラの裏道に日本人と血のつながった子供が捨てられていたんですか?」

「ほんの一部にすぎませんよ。実際にはもっともっといるんじゃないのかな。」



 正樹は流木のベンチから立ち上って言った。

「ちょっと、ホワイトサンド・ビーチへ行ってみましょうか。来る時にヘリから見えた、あの白くて長い砂浜です。」

「ええ、長さはどのくらいあるのですか?」

「4キロメートルあります。真っ白な砂浜が4キロメートルも続いているんですよ。」

「素敵ですね。」

 とびっきりの笑顔を理沙は見せた。二人はゆっくりと砂浜を歩いた。

「理沙ちゃんと同じように、理沙ちゃんのおじいさんもいつもニコニコしていませんか?」

「ええ、そうよ。その通りですよ。うちのおじいちゃんはいつも笑顔だわ。」

「それは素晴らしいことですよ。なごやかな顔を他人に施す。誰に対しても笑顔で接すること。すばらしい笑顔を交わせば、そこには争い事は起こりませんからね。それからもう一つ、人を惹きつける一番の方法はどんな時でも笑顔でいきいきしていることです。年をとっても、理沙ちゃんのおじいさんのように生きている人はボケたりはしませんよ。」

「あたしたちね、おじいちゃんのそばにいると、何と言ったらいいのかしら、生きているという実感がありますのよ。」

「そうでしょう。分かるな。僕はますます理沙ちゃんたちのおじいさんに会ってみたくなりました。」

 理沙は正樹の本心をすでに見抜いていた。

「うちのお姉さん、そんなに早苗さんに似ていますの?」

「ああ、似ている。正直に言うと、テレビで君のお姉さんを見てから、僕の心臓は速くなってしまいましたよ。でも、その反面、彩花さんは早苗とは違う人だと、別人なんだと自分に言い聞かせています。早苗と僕はね、お互いの引きずってきた悲しい過去を、二人で半分にしてきたんです。それから喜びは、二人で二倍にしてきました。」

 正樹は少し瞼を閉じて、また話しだした。

「早苗は死ぬ前にありがとうと言ってくれました。その一言は僕にとっては救いでしたよ。生まれてきて良かった。あなたに会えて本当に良かった。感謝しますと言って去って行きました。ありがとうの一言は残された者にとってどんなに助かることか、悲しみを引きずらなくてすみますからね。あとは時の癒しを待てばいいのです。忘れるという特技を人は兼ね備えていますからね。」

 理沙が言った。

「なんか、正樹さんって、うちのおじいちゃんみたい。さっきから、おじいちゃんとおんなじことばかり言ってるんだもの。きっと真剣に命と向かい合っている人たちには共通することが多いんですね。それに感性の豊かな人は、過去に何度も涙を流していて、苦しみを知っている人じゃないかしら。さっき、正樹さん、早苗さんと悲しみを分け合ったと言っていたでしょう。」

「偉そうな事を言ってごめんなさいね。確かに、苦難逆境は人生を豊かにしてくれます。より生き甲斐を感じさせてくれるものです。人の幸せって、つらいことに出合うことが少ないとか、ないとかではなくて、むしろ難題や苦難に立ち向かってそれに打ち勝つことじゃないのかな。」



 空は明るくなりかけていた。浜辺を掃除している島の人間はみんな正樹の知り合いだ。すれ違う度に「先生、おはようございます。」の声がかかった。正樹も軽く会釈をしてそれに答えていた。理沙は履いていた靴を脱いで、それを両手にぶら下げて歩きだした。

「裸足の方が歩きやすいわね。それにこっちのほうが気持ちがいいです。」

「僕も島にいるときはビーチ・サンダルか裸足ですよ。滅多に靴など履きません。」

「そうだ、さっき、樫村さん、複雑な表情をされていましたね。お医者様が嫌いな人でしょう。正樹さんがお医者様だと分かると、急に黙りこんだりして、表情が暗くなりましたのよ。でも、正樹さんと一緒に心臓マッサージをされているときの樫村さんの顔はとてもいきいきしていて真剣でした。」

「彼、何か感じてくれればいいんですがね。このボラカイ島に来て、彼の気持ちが少しでも癒されればよいのですが。」

「そうね、お母様を手術されたお医者様を憎んでいても仕方がないわよね。・・・・・・でも、もし、あたしが樫村さんと同じ立場だったら、どうかな?・・・やはりお医者様を嫌いになるかもしれませんね。」

「確かに、外科医は成功率の低い手術と分かっていても、また自分のもっている以上の技術を要求されたとしても、やはりメスをとってみたいとおもうものです。患者さんの犠牲があって、次第に外科医はその腕を上げていくものです。それは否定できません。だから、尚更、医者は病んだ臓器ではなくて人間に深い情けがなければいけない。絶対に医者が忘れてはならないことは手術台にいるのは病んだ患部、臓器ではなくて、人だということです。生きた人間だということを忘れてはいけない。驕ってはいけない。どんなに医学が進歩しても医者は死を征服することなどできないのですからね。」

 二人は市場の近くまで来ていた。正樹が市場の近くにある自分の診療所に理沙を誘った。

「ちょっと、うちの診療所に寄っていきますか?」

「ええ、ぜひ。」

 二人は浜辺から上がりビーチ・ロードへ出て、朝の市場を抜けた。すでに市場は人がいっぱいだった。ブロックだけで簡単につくられた診療所につくと医師のヨシオが待合室の長椅子で眠っていた。奥の正樹の部屋にもタカオ医師が床に敷物を敷いて眠っていた。そこには理沙と正樹の居場所がなく、二人は診療所をすぐに離れた。

「ごめんなさい。二人ともよく眠っているから、起こすのはかわいそうだ。」

「いいんですよ。昨夜のあの患者さんで、きっと疲れているんだわ。」

「あの二人、岬の家の出身なんですよ。ストリート・チルドレンだったんです。」

「そうなんですか。」

「他にも、うちの診療所には六人の医師がいます。みんな岬の家からきた者たちばかりです。看護婦も五人います。この子たちもみな日比混血児です。」

「まあ。そんなに。」

「僕が日本に出稼ぎに行くのはね、みんなの生活費を稼ぐためですよ。」

「えー、でも、診療所でしょう。診察代とか、保険料とか、ないんですか?」

「うちの診療所はね、自己申告制でね、患者さんがお金がある時にね、診療所の入口に設置してある診療箱に入れてもらっています。」

「でも、それじゃあ、・・・・・・。その診療箱にはお金が入っているんですか?」

「入っていませんね。みんな入れたくても入れられないのが現実ですよ。」



 正樹と理沙は軽く朝食をとってから、教会と警察へ寄って、早苗と樫村の母親の遺骨を共同墓地に納骨する準備をしてから、トライシクルで岬の家へ戻った。



 丘の上の共同墓地で納骨式が始まったのは正午過ぎだった。警官と神父様が立ち会って、樫村の母親は茂木さんとボンボンが眠っている墓へ、早苗はディーンの眠っている墓へそれぞれ入れられた。海から吹き上がってくる風がやさしかった。丘の上の共同墓地はとても清々しい場所で、見晴らしも良く、そこは正樹の一番好きな場所だった。



納骨を終え、樫村が正樹に言った。

「ここはいいな。きっと俺のお袋は喜んでいるぜ。俺も死んだらここに入りたいな。」

「まあ、お互いに定命が尽きるまでしっかり生きて、ボラカイ島とまだ縁があったら、入ればいいさ。」

「あんたは医者だったんだな、・・・・・・。すまん。ちゃんとした礼も言わずに、お袋をここに連れて来てもらって感謝している。」

「いいんだ。お礼なんて、それより、あと一日しか、おまえはこの島にいられないんだ。日本に帰る前に少し島を案内してやるよ。これから山に登ってみるか。」

「この島に山があるのか?」

「まあ、小さい山だがな、この共同墓地よりもっと見晴らしは良いよ。とても気持ちの良い場所だよ。理沙ちゃんも一緒にどう?」

「ええ、ご一緒しますわ。」

 納骨のために集まってくれた人々を見送ってから、三人はトライシクルでルホ山に向かった。何度も樫村と正樹はトライシクルから降りてバイクの後ろを押した。中古のエンジンは急な坂道を四人を乗せたまま登りきることはできなかったからだ。



 見晴らし台からはボラカイ島の裏側、ホワイトサンド・ビーチの反対側の海岸線を望める。遠くを行く船の白い線がとてもきれいだった。開放的な青い空、緑色と青色の入り混じった大海原、これ以上何を望めというのか。そこは簡素なつくりの見晴らし台だったが世界一の展望台と言っても過言ではなかった。理沙が樫村に言った。

「樫村さん、嬉しそうね。」

「ええ、気持ちがスッキリしました。不思議なんだ。胸のつかえがスーっと取れたようでね。」

「お母様もお墓でゆっくり眠ることができますね。」

「そうだね。それもあるよ。もっと不思議なのはさ、今までの俺がさ、ちっぽけに見えてな。この雄大な景色を見ていると、いったい今まで俺は何をやっていたんだと反省しているところなんだ。ずいぶん無駄に生きていたような気がしてな。」

 正樹はニコニコしていて、何も言わなかった。さっきから理沙が樫村の相手をしている。

「ボラカイ島は不思議な島ですね。訪れた人をみんな幸せにしてくれますものね。」

「確かにそうかもしれないな。俺の場合は恨みとか憎しみが消えちまったよ。」

 正樹は笑顔のまま黙って二人の話を聞いていた。

「樫村さんは明日東京に戻られるのでしたね。」

「ええ、そうです。なかなか休みがとれなくてね。明日、俺は日本に帰ります。でも、また来ますよ。お袋に会いにこの島に来ることを考えると、何と言うのか、希望みたいなものが生れてきてね。・・・・・・明るい気持ちになるんだ。」

「それって大事なことよ。おじいちゃんはネグロス島の人たちにいつも言っているわ。どんなに小さなことでもいいから希望を持ちなさいって。希望を見つけることができれば幸せになれるんだって。ねえ、そうおもうでしょう。正樹さん?」

 正樹は見晴らし台の欄干に手を添えて、空に向って話しだした。

「皆、幸せになることを望んでいます。だけど、自分が幸せであることを実感することは難しくて、逆に不幸であると思うことはたやすいんじゃないかな。幸せのかたちはみなそれぞれ違うけれど、ただ、共通していることは心が持続して安らかな状態にあることだよ。人間は強いものでね、どんなに不幸な境遇でも耐え忍ぶことができます。どんな困難の中でも小さな希望が一つあれば幸せを実感することだってできるんですよ。希望は心をあたたかくしてくれます。それから希望は決して高望みはしないんだ。どんなに小さな希望でも人の心を十分にあたたかくしてくれます。希望は願望や欲望とは別もので、満足することを知っています。どんどんふくらんでしまう願望や欲望を持って生きるのではなくて、小さな希望をもって生きることが大切だと僕もおもうよ。人間、足ることを知らないとだめだよ。」

 理沙が言った。

「正樹さんはうちのおじいちゃんと同じことばかり何度も言うからびっくりだわ、・・・・・・。あたし、知っているわよ。おじいちゃんなら、きっと次はこう言うわよ。生きているという実感は自分を他人のために役立てた時に感じるものだってね。」

「正解!忘己利他だね、大乗仏教では我を忘れて他人の利益を優先しなさいと教えています。わがまま勝手、自分のためだけに生きると周りの者は離れていきます。裕福ですべてを与えられて満ち足りると非常に空しくなります。何をしても嬉しさを感じなくなりますからね。それほど人の願望ははてしないものです。身体や境遇に欠陥や欠点があっても心は健やかでいること、小さな希望を胸に毎日を生きることが大切なんです。」



 翌日、樫村は東京へと帰って行った。もう、彼の医者へ対する恨みや憎しみは完全に消えていた。また一つ、ボラカイ島は魔法を使ったようだった。





彩花

彩花





 マニラ東警察の署長も歳を重ねてしまった。正樹と初めて出会った頃のあの血気盛んな勢いはもうなくなり、渋くて落ち着いた表情を見せるようになっていた。正樹が彼の部屋に入って来るのを見ると、いつものように大きな机から立ち上がり、両手を差し出しながら正樹に近づき握手を求めた。

「おー、これは、これは、正樹くん、元気にしていましたか?」

「ええ、お蔭様で、署長もお元気そうでなによりです。飛行機が飛ばなくて、参りました。」

 正樹の後ろで樫村と理沙が驚いた顔をしながら二人の会話を聞いていた。署長室には他に二人の訪問者が来ていたが、署長はその者たちを後回しにしてしまった。正樹は自分の視線をその二人の先客に当てながら、署長に小声で言った。

「どうぞ、僕たちは後ろでお待ちしますから。」

 署長はうなずきながら握手だけ済ますと、席に戻り二人の先客と仕事を続けた。理沙が正樹に言った。

「正樹さんは署長様とお知り合いだったのですね。」

「僕が学生の頃からの、・・・何と言うのか、・・・署長は僕にとってはこの国の父親のような存在ですよ。ある意味ではそれ以上かもしれません。恩人とでも言うのかな、何度も命を救われたこともありますしね。僕は困ったことがあるといつもここに来るんですよ。」

 樫村が大きな声で言った。

「俺はあまり警察は好かんな。それに、何でここに来るとボラカイ島へ行けるんだよ?」

「あんまり大声で喋るなよ!まあ、お前の話は日本語だから、署長に聞こえても心配はないけれど、兎に角、ちょっと静かに待ってろ、今に分かるから!」



 十分ほどで話はまとまったようで、二人連れは署長に丁寧に礼を言いながら部屋から出て行った。署長は机の上の書類を整理しながら正樹に目で合図を送った。続いて机の前の椅子に座るように手招きしたので、正樹は理沙と樫村を椅子に座らせて、自分自身は理沙の後ろに立った。署長が言った。

「今、もう一つ椅子を持って来させましょう。」

 正樹が言った。

「いえ、結構です。僕はこのままで、ありがとうございます。」

「早苗さんはお元気かな?」

「つい先日、生まれ故郷の病院で、早苗は、・・・・・・、病気で死んでしまいました。僕のそのバックの中には彼女の骨が入っているんですよ。ボラカイ島の私たちのお墓に入れようとおもってね、・・・・・・。」

 正樹は言葉が途中で出なくなってしまった。署長はしばらく目を閉じてから、ゆっくりと言った。

「何ということだ!無常ですな。早苗さんのご冥福をお祈りいたしますよ。」

「ありがとうございます。でも、どうしてなんですかね?この世の中、悲しいことが多過ぎますよ。」

「まったくだな。警察で仕事をしていると感覚が麻痺してしまうが、本当につらい事が多すぎるな。わしは時々、教会へ行ってね、神様に向かっておもいっきり説教をすることがあるんだ。どうしてなんですか?何で我々に、こんなつらい試練ばかりお与えになるんだとね。」

「確かにそうですね。僕もよく落ち込んでしまった患者さんを慰める時に、神様は越えられないハードルは用意しないんだからと言い聞かせますけれど、大地震などで罪もない人々がたくさん死ぬと、神様の存在を疑いたくなりますね。」

「まったくだな。わしはしばらくボラカイ島へは行っていないが、ヘリコプターのパイロットたちの話では、ボラカイ島は随分とにぎやかになってしまったらしいな。」

「ええ、この国の代表的な観光地になってしまいましたよ。豪華なホテルが幾つも出来ましたし、新しい桟橋が完成して、浜のボートステーションで腰までずぶ濡れになって下船する情緒がなくなってしまいましたね。」

「まあ、それも良し悪しだな。ところで飛行機が飛ばなくなってしまったと言っていたね、定期便は午前中に飛んでしまったけれど、すぐにヘリを準備させるから心配するな。」

「いつもすいません。我がままばかり言いまして、署長には感謝しております。」

「心配するな。子供たちの面倒をお願いしているのだから、それくらいのことはあたりまえだよ。」

 ここでやっと、署長の注目が樫村と理沙に向かった。正樹が紹介を始めた。少し難しい英単語を選んで、樫村が分からないように説明した。

「こちらは樫村と言います。少し前にお母様を亡くされまして、やはり、僕たちの共同墓地に一緒に入れてあげることにしたんです。彼は手術をした医者がお母様を殺したと思い込んでいるのですよ。まだ怨みと憎しみの世界にいるものですからね、僕はボラカイ島のあの大自然が彼の気持ちを変えてくれるとおもったものですからね、一緒に連れて来ました。」

「そうか、それはいいかもしれないな。前に君が言っていたけれど、ボラカイ島は心の病院だからね。自分のことを捨てた親を、あれだけ憎んでいた子供たちが立派に成長しているんだ。彼の心もきっと癒されるだろうよ。」

「そして、こちらは理沙ちゃん、彼女のおじいさんがネグロス島で農業の指導をしていらっしゃいます。空港で偶然に知り合いましてね、ネグロス島へ行く前にボラカイ島へ寄ること勧めた次第です。」

「ネグロスですか、砂糖の島だ。あと、南部のセブ島に近いところにシリマン大学があるな。学園都市のドゥマゲッティは治安が比較的良い。確か、あの大学はプロテスタント系の大学のはずだが、カトリックのこのフィリピンでは珍しい存在だよ。」

 正樹が理沙に質問した。

「理沙ちゃんのおじいさんはネグロスのどこにいるの?」

「ドゥマゲッティからそんなに遠くないわ。姉がね、シリマン大学にICUの交換留学生として、そこに在籍していますのよ。」

 正樹は理沙のその言葉を聞いて、また不思議な力を感じた。これもまたボラカイ島の魔力なのだろうか?今、署長が話をしていたシリマン大学に理沙の姉がいると言うのだ。偶然にしては出来過ぎている。正樹は理沙に確認するように聞いた。

「お姉さんがシリマン大学にいるのですね。もし良かったら、お姉さんのお名前を聞かせてくれませんか?」

「ええ、いいですよ。姉は彩花といいます。韓国や日本のミッション系の大学からはけっこう行っているのよ。例えば、フェリス女子学院大学やICU、それから四国学院大学なども交換留学を行なっているわ。」

「へー、そうなんだ。すると、彩花さんは学生ビザでネグロスにいるわけなんだ。理沙ちゃんの滞在ビザは観光ビザですか?」

 理沙はこくりとうなずいてから言った。

「あたしもね、もっと長くおじいちゃんのところにいたいから、ビザの変更を考えているの。もしかするとシリマン大学へ入るかもしれないわ。あの学校は海のすぐ側にあってね、とても静かな学校よ。キャンパスは緑に囲まれていて、とてもきれいな大学なの。ドゥマゲッティの町の大きな部分を大学が占めているわ。」

「ネグロスか、ドゥマゲッティね、彩花さん、それにシリマン大学、ますます理沙ちゃんのおじいさんに会ってみたくなってきたよ。」

 樫村がじれるようにして正樹に言った。

「おい、ボラカイ島はどうしたんだよ。早く何とかしろよ!」

「心配するな!もう30分もしないうちに島に行けるから。」

「本当かよ?」



 その正樹の言葉通り、三人を乗せた警察のヘリコプターはボラカイ島の岬にある豪邸の中庭に到着した。

 樫村と理沙はヘリが地上に着陸する前に完全に言葉を失っていた。真っ青な空、エメラルドグリーンの海、そしてどこまでも延びている真っ白な砂浜を二人は360度の空間全体で感じて放心状態になっていた。正樹は案内してきた訪問客がボラカイ島の空気に触れて驚く様子を見るのがとても好きだった。樫村と理沙の二人も間違いなく感動していた。



 ヘリの到着した岬の豪邸にはマニラで親からも社会からも捨てられた日比混血児たちが

保護された後、彼らの自分の意思でもって、この家で仲間と共同生活をしていた。その数は以前ほどではなくなったが、まだ多くの子供たちが岬の家で暮らしていた。市場の近くにある正樹の診療所はここの子供たちの健康管理を任されていた。正樹が日本へ行って留守の間は、すっかり貫禄が出た主任のヨシオと他の青年医師たちとで手分けして診察にあたっていた。正樹の診療所で働く医師たちはヨシオも含めてすべて岬の家の出身者たちだ。かつてはマニラの裏道で残飯をあさっていた子供たちだった。



 三人が降りると、ヘリはよく晴れ上がった青空の中に消えて行った。豪邸の中庭に造られたヘリポートにはこの家で勉強を続けている子供たちが、さっき、午前中に飛び立った定期便が再び戻って来たことに驚き、大勢集まって来ていた。しかし訪問者が正樹だと分かると安心して、それぞれが担当している場所に戻って行った。この岬の家を運営している渡辺コーポレーションの担当重役の佐藤と、その妻のナミだけがヘリポートに残った。ナミは亡くなってしまった早苗の親友だ。ナミは既に診療所の主任医師ヨシオから早苗のことは知らされていた。真っ赤な目をしてナミが正樹に言った。

「正樹さん、このたびは・・・・・・、」

 ナミは溢れ出る涙で、すぐに言葉が途切れてしまった。正樹はもう大丈夫だった。手で持っているバックを見せながら言った。

「ほら早苗さんを一緒に連れて来たよ。この島の、あの丘の上の共同墓地で眠りたいと本人が言っていたからね。約束どおり連れて来た。長野の親戚の人々はあまりいい顔をしなかったけれど、早苗さんの遺言だからね、特別に分骨してもらった。だから、早苗さん、半分は長野の先祖代々のお墓に残してきました。」

 佐藤とナミは悲しい表情のままだ。正樹が話を続けた。

「紹介が遅れましたが、こちらは理沙ちゃん、リムジンバスでたまたま一緒になってね、おじいさんとお姉さんがネグロス島にいます。寄り道ですね、ボラカイ島にちょっと寄ってもらいました。それから、こっちは樫村、東京での仕事仲間です。やはり、お母様を最近、亡くされてね、・・・・・・、まあ、いつまでも部屋に置いておくのも何ですからね、特に彼の場合は色々と訳ありでね、様々なことを考えてしまうものだから、部屋にお母様を置いておくよりもお墓の方がいいとおもったものですから、それでね、彼のお母様を僕たちのお墓に入れることを提案した次第です。」

 佐藤が二人に丁寧に挨拶をしてから、三人を豪邸の中へ招き入れた。吹き抜けの豪華なリビングに理沙も樫村も圧倒されていた。正樹が小さな声でナミに一言耳打ちをした。ナミは軽くうなずき言った。

「この家にはゲストルームがたくさんありますから、どうぞ遠慮なさらないで使ってくださいね。ちょっと町まで遠いけれど、その分、静かだから、ゆっくり出来るとおもうわ。」

 理沙と樫村は驚いた表情のまま、正樹の方を見た。

「後で、僕の診療所へ案内しますけれど、あそこは狭いので、ここがいいでしょう。」

理沙が聞いた。

「正樹さんは?」

「小さいですけれど、僕は自分の浜辺の家がありますから、そっちの方で寝ます。・・・・・・、そうか、二人が島にいる間は僕もここで世話になろうかな、そっちの方が楽かな?」

 ナミが言った。

「正樹さんもどうぞ。たくさん話が聞きたいし、それに、独りで浜辺の家にいるなんて寂し過ぎるわ。」

「そうだね、それもそうだ。」



 その夜、正樹は独りで海が見下ろせる大きなテラスに立っていた。早苗が初めてこの岬の豪邸にやって来た夜のことを思い出していた。ボラカイの海が月の光に照らされてキラキラとあの日と同じ様に光っていた。波の音しか聞こえない、本当に静かだった。正樹は自分に言い聞かせていた。ディーンを失い、今度は早苗が先に旅立ってしまった。こんなに寂しい想いをするのなら、もう恋などしたくない。・・・・・・正樹はそこで苦笑いをした。何だよ、これじゃあ、まるで歌の歌詞のようじゃないかと独りで呟いてみた。そしてまたぼんやりと眼下に広がるボラカイの海を見下ろしていた。

 テラスのベンチに腰を下ろすと、夜の空が正樹のことを被った。雲が幾つも闇夜の中を通り過ぎて行った。雲も月の光を受けて鈍く輝いていた。

 ナミがグラスを片手に現われた。その足どりはたどたどしかった。

「やはり、ここだったわね。今日は独りなんだ。」

「ええ、ここに来ると、・・・思い出が一気に溢れ出してしまって、・・・動けなくなってしまいました。」

「そうね、あたしが初めてこの島に来た、・・・あの夜もさ、早苗と正樹さんはこのテラスにいたものね。」

「ええ、そうでしたね。」

 ナミが正樹の目の前の欄干のところまで行き、ゆっくり振り返って正樹のことを見た。均整のとれたそのナミの身体はすべての男たちの憧れだ。あの時のままだった。ナミのプロポーションは完璧でちっとも崩れていなかった。ナミは外交省のバリバリの外交官だった。ところがボラカイ島の魔法にでもかかってしまったように、この岬の家の現在の管理責任者の佐藤とあっけなく結婚してしまった。

「ねえ、正樹さん、あたしね、この島で暮らすようになって変わったわ。」

「それはそうでしょう。世界中を相手にしていた外交省だったからね。いつ呼び出されるかわからない24時間勤務の外交官が、生活も時間もゆっくりと流れるボラカイ島に嫁に来たのだからね、変わって当然でしょう。」

「忙しいという字は心を亡くすと書くでしょう。本当にその通りよ。この島に来てそのことがよく分かったわ。」

「確かに、忙しいという字はこころ偏に亡くすと書くね。漢字を考案した人はすごいね。よく考えて漢字をこしらえている。僕は仕事もなくてさ、ただブラブラしているよりは忙しい方が良いと思うけれど、忙し過ぎると何もかも忘れてしまうものだ。とっても大切なものまで知らず知らずのうちに忘れてしまうこともある。」

「そうよね、忙し過ぎると心に余裕がなくなってしまって、相手の悩みに気がつかない事だってあるものね。」



 佐藤がナミと正樹が話をしているテラスに飛び出して来た。

「あー、やっぱりここにいたのか、正樹さん、ちょっとリビングへ来てくれませんか。」

 ナミが言った。

「どうしたの?」

「いいから、早く! テレビの画面を見て下さい!」

 三人は急いで豪邸の中に入った。吹き抜けのリビングに置かれた大きなテレビには白いドレスを着た女性たちが映し出されていた。佐藤が言った。

「これ、どうやら、シリマン大学の学園祭のようです。美人コンテストのようなんですけれど、この一番左の子なんですけれど、・・・・・・ほら、この子です。」

 そう言って佐藤は白いドレスに赤いタスキを肩から下げた女性を指差した。ナミが真っ先に叫んだ。

「やだ、早苗じゃない。」

 正樹は黙ってその子のことを見つめていた。佐藤が言った。

「ねえ、早苗さんにそっくりでしょう。」

 樫村と理沙も何が起こったのかと驚きながらテレビの近くに寄って来た。そして理沙がポツリと言った。

「あら、いやだ。お姉さんだわ。彩花ねえさんがテレビに出ているわ。」

 佐藤とナミ、そして正樹の三人は今度は理沙の方を見た。佐藤が理沙に向かって言った。

「赤いタスキの人は君のお姉さん?」

「ええ、彩花ねえさんですよ。」







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